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アンのテディ・ベア

2・To be or not to be?


 

−1−


 テレビではロイ・フォックス・ワイエス知事候補者について話題になっている。彼が選挙カーの頂上で微笑む姿はなかなかに様になっている。ゆるやかに腕を振ってあちらこちらに視線を与える姿。たとえ一年ほど前に一気に老け込んだように痩せたとはいえ、大富豪の社長である男のまだ若い容姿を衰えさせるほどではなかった。ワイエス候補者には若さがあった。財力は言うまでもないが、彼には他の候補者にはない若い力を感じさせてくれる、ある種のカリスマ性が存在した。
 彼の瞳の奥が曇っているのを、支援者は知らない。彼の娘ですら知らないのだから、誰が気づくはずもない。



  





 アンはテレビを消した。ブラウン管をよぎった顔は知った顔だったようだが気にとめる事もなく、彼女の意識からテレビそのものを消す事にした。ぽん、とテレビのリモコンをベッドに放り出すと、リモコンは跳ね返りもせずにベッドに沈んだ。彼女もリモコンに倣うようにベッドに飛び込むと、ごろりと横になる。
 足を伸ばす少女を見て、足の爪の手入れをしていたタマラは、何気ない風を装って、声を上げた。
「アン、あんた最近やばいヤツらと付き合ってるって聞いたけど、ほんと?」
「……ジャックの事?」
 少女は顔を向けてはくれなかったし、“お隣りの太っちょで髪の生え際の後退したお人よしのジャックさんの事を聞いているの?”とでもいうような、気楽な返事がタマラは気に入らなかった。あの人、いい人だよ、なんて返ってきそうな口調なのだから。
「だから、そのジャックがやばいんだってば」
 タマラは一度言葉にする事で、一層ジャックの胡散臭さが増した事を思い知って、顔をしかめた。話題の人物は、タマラの認識しているジャックと、アンの脳裏に浮かんだジャックと同一人物のはずだ。いわゆる“情報屋”と言われる男の話を今、しているのだ。
 ジャックなんてよくある名前だが、だからこそ怪しい事この上ない。まるで、そう、まるで偽名みたいに思える。じゃあ苗字はスミスっていうのだろうか、なんて勘ぐってしまうのは、タマラが生まれた時からこの町で暮らしているためで、これは正当防衛のうちに入るに違いない。誰かを疑うのは、この“メラン・タウン”では当たり前のこと。お行儀のよろしくない住民なんて、腐るほどいる。
「情報を売るやつらにロクなやつなんていないんだから。……ねえ、アン? 何の情報を集めてるの?」
 以前よりタマラは気になっていたのだ。アンが何かしたい事があってここに居るのだと知っていた。小さな少女が何をしようとしているのか、知りたいけれど知りたくない。タマラには複雑な思いがあった。彼女は踏み込んだら離れて行ってしまいそうな気がしている。
「……まだ何もつかめてないの」
「ねえ、アン? あたしはあんたにあんまり危ない事してもらいたくないんだよ。心配なんだ」
 それでも彼女の身を案じているのだと伝えずにはいられない。アンより年上の女性であるタマラだが、アンを見つめる様はまるで大きな妹のようだ。
 アンには、兄弟がいない。だからだろうか、この大きな妹に対して姉のような、こちらが大人にならなくては、と思う事がある。なんだかむずがゆいような、恥ずかしいような奇妙な心地になる。誰かに心配されるなんて。
 だが、その必要はない。アンは武器を手に入れた。偶然の重なった最中で、まだ小さな少女がまさかそれを掠め取ろうとは誰も思っていなかったのだろう。何しろ物騒な街なのだ。盗みも日常的な犯罪のひとつで、物がなくなろうと深く考えない者も少なくはない。
 ほんの少し、良心がとがめるが、小さな胸の痛みは忘れてしまって。タマラにも、まだ少し勘ぐらずにいてもらいたい。
「心配なんて、大丈夫よ、タマラ」
 少女はあまり笑わない。それでもこの時はタマラを安心させようとしてか、目元だけで微笑んだ。いつもむっつりと引き結んだ唇が、この細身で幼い少女の半生に何かがあったと思わせる、子どもには似つかわしくない過去を語っているという娘なのに。
 大人びた素振りをして、隠し事も普通の子どもより上手くやってのけるけれど、アンはまだタマラを心配させるには十分の事をしていた。普段しない事をする時、人は何かを隠しているのだ。
「そんなはずが……」
「ねえ、タマラ。あたし、そろそろ家事をしようと思っているところなの」
 分かる? と母親のような威圧的な笑顔を浮かべてアンはタマラを黙らせた。ほとんど働き口のない幼いアンがタマラの家に居候をさせてもらう事になった際に、アン自身が決めた決まりがある。
 ひとつ、アンは家賃代わりにタマラの家の家事を受け持つ事。
 ふたつ、アンの事を詮索させない事。
 みっつ、タマラはいつでも好きな時にアンを追い出していい、という事。
 全てアンの方からの申し出だった。最初の一つはあまり気にしなくていいとタマラは言っているが、アンは律儀に守っている。第二の決まりはタマラが時々守れなくなる。最後の一つは、タマラには考えられない未来だった。
 はじめて会った時のアンを、タマラはしっかりと覚えている。雨に濡れてひどく身体の冷えた少女をそのまま放っておく事など、タマラ・ベンダンディには出来なかった。
 数えればもうすぐ一年前の事になる――。



  





 二日前から雨の続く日だった。いつも道を歩く人々の顔色が優れないこの町“メラン・タウン”でも、さすがに雨の日では人影もわずかだった。人がおらず、曇りがちな人々の顔も見られない。
 一日の仕事を終えて疲れたタマラも、重たい身体になんとか言う事を聞かせながら歩いていた。傘もなく、もはや無意味となっている鞄の雨よけだけで降雨を避けていた。あと二ブロックも歩けば彼女の家、というところで何かが何かにぶつかって倒れるような音を聞きつけた。誰か、ゴミバケツにでもつまづいたのだろうか。
 いつもなら通り過ぎるはずが、ちょうど路地が見えたので物音の音源を捜して視線を先へと伸ばしてしまった。一回見過ごして、もう一度それを目にしてタマラは息を呑む。
 少女が倒れている。いや、転んでしまったという方が正しいのかもしれない。大きなスーツケースを手に引っ掛けて、女の子がうつぶせに倒れている。
「大変……!」
 タマラが駆け寄ると、少女は自分で立ち上がろうとしているところだった。慌ててそれを支えると、相手はタマラの手を振り払うようにして、スーツケースに飛びついた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「……ごしんせつにどうも」
 オフィスの受付嬢のように機械的に答えると、少女は怪しげな足取りで歩き出した。
「ちょ、ちょっと!」
 思わず、タマラは少女の腕を掴んで引き止めた。まだ十歳ほどの少女が、大きな荷物をかかえて一人で歩いている。大抵のものは家出少女だ、と判断するだろう。それだけではなく、タマラには何か、少女に思うところがあった。びしょ濡れの長い髪の下、のぞけた青色の瞳には浮世離れした儚い感情が見えたような気がしたのだ。
「傘はないの? ねえ、雨の中そんなに……ひどく、冷えてるじゃない」
「ごめんなさい、急いでいるんで」
 出来るだけ早く遠くへ行かなくちゃ……。まるで追われているみたいに、少女はこぼした。
 ただの家出少女にしては、切羽詰まった様子だった。
 引き止めなくては。
 何故か、タマラは強く思った。それほどまでに少女の腕が冷え切っていたからかもしれない。早く暖かいところへ連れて行って、甘くてあたたかいココアを飲ませてあげなくては。
「風邪引くよ、倒れちゃう」
 少し強く腕を引いただけなのに、少女はぐらりと身体を傾がせた。やはり、既に体力がかなり削られていたのだ。タマラの中のナイチンゲールのような慈愛の心が、彼女を強気の行動に移させる。
「だめ、うちで休んでいきなさい」
「そんな暇ない……」
 スーツケースの方が重たかったが、少女の身体は軽く、タマラは少女を持ち上げて雨の中を進んだ。



 気がつくと、アンはよそ様の家の中にいた。それは見た事のない天井と、他者の家特有のにおいですぐに分かったが、身体はひどく重く、手足はすぐには動かせそうになかった。
 どうして人の家に、というよりも先に蘇ったのはひどく辛い物語。あれ(・・)を脳内で再生させたくなくて、アンはずっと歩き続けていた。
 逃げなきゃ。
 ここではないどこかへ。
 考えたくない!
 脳裏にちらつく炎が襲ってきそうで、アンはぎゅっと目をつぶった。
 一度泥に濡れたチョコレート色の毛並みは、柔らかくて肌に心地よい手触りをいくらか失い、安物のカーペットのようになってしまった。鞭のようにしなり、意思あるように動いたピンクのリボンは、まるで枯れてしまった葉のようにしおれている。まるで、失った何かをその身体で教えているようで――
 背中からはい上がる焦燥感は、気分が悪くなるほどだった。吐き気が、何もかもアンの中のすべてを追い出そうとするかのように、うずうずとうごめいているのが分かる。
 こわい。
 何も考えたくない。
 こわいよ、ジョリー。
「大丈夫」
 何かが押し寄せてくる、やさしい圧力を感じると同時に、アンは既視感を覚えた。いつだったかジョージアがしてくれた事に似ている。
 「え、何?」そうアンは言ったつもりなのに、声になっていなかったらしい。少女は大人の女性の身体にすっぽりとおさまっていた。
 挨拶ですらある、それ。母親ジョージアがいなくなってからは、彼女は忘れてしまった、それ。いつもずっと、抱きしめているのはアンの方で、その小さな腕の中にいたものは失われてしまった。
「泣きたい時は、思いっきり、いっぱい泣いていいの」
 うしなわれてしまった。
『……大丈夫だ……きっと……』
 ぜんぜん大丈夫じゃないのに、そう言ったひとがいた。
 アンの世界は全然大丈夫じゃないのに。
 こんなところで足止めを食らっている場合ではなかった。このひとの体温は冷えた身体には熱いほどだった。ほしい言葉をくれた訳じゃなかった。
 アンは、言語を操れない小さな小さな子どもみたいに大声を出して泣いた。




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