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アンのテディ・ベア

2・To be or not to be?


 

−2−


 本来ならば家族に連絡をしなければならないのだろう。本人がどう思っていようと社会的には、アンはただの家出少女なのだから。だがタマラはそれをしたら、この少女はたった一人でまたどこか遠く、危ないところへと行ってしまう気がして、出来なかった。
 道徳観の欠如した人間の少なくない町にいるせいで、タマラの倫理観もおかしくなってしまったのだろうか。でも、今あの少女を一人にさせてはいけない気がする。青い色の瞳は、底のない闇のようにかげっていたから。
 自分が真っ当な大人だと胸をはれる自信はないが、タマラより真っ当じゃない大人のうじゃうじゃ居る町に放り出すのは、もっと悪い。
『しばらく居ていいんだよ』
 タマラは、はっきりとうちに住めばいいとは言わなかった。
 なんてことのないような顔をしていたけれど、アンは三つの約束事をとりつけた。ひとつはタマラのため。もうひとつはアンのため。最後は二人のための約束だ。タマラは、ずっと同居をしていていいというつもりだったから、最後のひとつはアンのための約束と言っていいほどだった。
 三つ目の約束、タマラはいつでも好きな時にアンを追い出していい。
 アンはいつかこの安住の地を出て行く。彼女を縛るものはなにもない。それはもしかすると、二人の暗黙の了解だったのかもしれない。



  





「ねえ、買い物に行かない?」
 タマラ・ベンダンディの日常は、ごく穏やかなものだった。彼女は夜の飲食店で働いているので昼と夜の逆転した生活を送っている。休みの日には家で寝ているか、そうでなければ買い物に行ったり、ジムに行ったりしている。今日は、休みの日だった。
 居候のアンはというと、タマラの住む安アパートの一階下に住むウェルズさんの家で週に数回ベビーシッターをするか、家に閉じこもっているかだ――そうタマラは信じている。小さな少女が時々町へ飛び出して何をしているのか具体的には知らないが、何かをしていると気がつくのには時間がかかった。
 アンの今の生活は、何不自由なく与えられる父親との生活と比べると足りないものはたくさんあったのかもしれないが、なんという事はない、母と暮らした生活とさほどの変わりはなかった。お金を節約して、必要以上のものは買わない。ものが壊れてもすぐに新しいものを買うのではなく、修理をする。母としてきた生活とそっくりとはいえなくとも、似たことをしてきた。少し前まで不満を口にしなくとも、勝手に新しいものや珍しいものを揃えられ目の前に並べられたロイとの生活とは大違いだ。
 ロイが何を考えていたのか、アンにはよく分からない。結局はあまり同じ時間を過ごした記憶がないので、きっとアンには興味がないのだろう。彼女にとってもどうでもいい事だ。
「今日は、何を買うの?」
 平坦な日常に、ふと何もかもが嘘だったのではないかと思える事がある。
 アンジェリカ・ミルンのこれまでの人生は、この血のつながらない姉と二人暮らしを続けてきた、そういうものだと錯覚してしまう。ジョージアも、ロイもおらず、お金にたまに困る時はあるけれど、穏やかに過ぎていく暮らし。
「食材。今日の夕飯用に何か、他にも買い足しておきたいものがあるんだ」
 ロイ・フォックス・ワイエスの監視下では、こんな風にその日の料理の食材を直接買いに行くことなどしてこなかった。ジョージアといた頃はどうだったろう。もう、遠い話で覚えてはいない。



 タマラの家から歩いて十五分ほどの場所にあるスーパーマーケットは、店の規模のわりには客足が乏しく、そのうち閉店してしまうのではないかと思わせるような場所だった。
 商品の入れ替えも少ないだろう、埃をかぶった缶詰。スナック菓子。アンは賞味期限がまだでもおいしくなさそうなそれらを、感慨もなく見下ろしていた。
「スープ、買っておくから。いつもみたいに食べなよ」
 家主が仕事でいない間のアンの食事は、長い間保存がきくものを買い占めて、タマラの家の台所に置かれる。キャンベルのスープ缶。缶詰の食品はロイの家では出なかった。彼のいない席で、有名なシェフが手がけたスープを与えられた。
「大丈夫だって、一人で出来るわ」
 アンは賢い娘だったから、タマラの疑いを知っていた。彼女が留守にしている間、アンはあまりご飯を食べていないのではないか? それは正解だった。でも、量は少なくとも食べてはいるし、それに食べられない訳ではないのだ。ただ、おいしいと思えない。それだけ。
「今日は、サラダとスープは作るから、ピザは買おうかな」
 どう思う? なんていう風にタマラはアンに顔を向ける。「いいと思うよ」それは本心からの言葉だったけれど、アンには興味のない内容だったから、きっと声に感情はのせられなかった。



 夕飯といっても、タマラは深夜から仕事なので、食後に仮眠をとってから出勤、という名づけづらい食事の時だった。サラダはふかしたじゃが芋、ゆで卵、トマトにニンジンなどの切った野菜に特性ドレッシングをかけた。スープは少し焦げた玉ねぎの味がしたもので、冷凍ピザはかすかに冷凍庫の味がした。
 なんていうことのない食事。時々意味もない会話をして、小さく笑って、テレビを見たりもした。アンの忘れていた、誰かと一緒に食べる食事。ロイのところでは、隣りにはいつも“彼”を座らせていたけれど、今はそうしない。そう出来ない。
 ただ、アンはタマラがいる時にはおいしくない料理にも味を感じるのを、心のどこかで知っていた。
 ブラウン管のテレビが移す映像が、面白みの欠けるものになった時、つと沈黙がやってきた。
 ひとつ気になることを聞く気になったのは、何か予感を感じていたからだろうか。いや、アンが決意をしはじめたからだろうか。
 どうして、見ず知らずの自分を家に一年近くも泊める気になったのか? 簡単に聞けそうで、聞けなかったことだ。
 いささか驚いた顔でタマラは少女を見つめる。意外だったのだろう。しばらくして、フォークを机の上に置いた。
「近所の子にさ、まだ小さいのにひねくれた子が一人いてね」
 その後付け加えられた説明によると、タマラは十代の半ばまではこのメラン・タウンの別の場所に住んでいたそうだ。
「あたしもまだ、子どもだったから……その子が気に入らなくってさ。あたしの方が、年上だったのに、大人げない話だよね。あんまりいい関係じゃなかったけど、会うたびに憎まれ口ばっかり言い合ってた」
 その子はそんなひねくれた性格だからか、あまり友人が多かったようには見えなかったそうだ。だからだろうか、口げんかになると分かっていても、タマラに声をかけてきたのは。
「でもさ、ある日、最近その子を見ないなって気づいたんだ。いつの間にか、引っ越してた。突然だから、びっくりも出来なかったっていうか」
「あたしが、その子に似てる、って言いたいのね」
 誰かに他の誰かを重ねる、というのはよくある話だ。人は身近な人とのつながりの中で生きている。誰かに似ているから放っておけない、というのは納得がいかない話ではない。
 彼女はしかし、アンの言葉に首をひねった。小さな微笑みを口元にのせて。
「んー、どうだろ。男の子だったしねえ。最後に会った頃は、六歳か七歳くらい、だったかなあ」
 タマラはしばらく口を閉じた。
「あたし、一人っ子だったしさ。妹がいたらこんなだったのかな、って思ったんだ」
「何それ、あんまり話つながってないわよ」
「あ、そっか。いや、なんかさ、急に誰かがいなくなるとさびしいじゃんって話」
 疑問はたくさんあった。結局は、やっぱりその六歳だか七歳の子どもをアンに重ねているのだとか。それでも、アンがこの家を離れる時には、それをちゃんと告げようと思った。



  





 次のタマラの休みの日は、三日後だった。休みは不規則ではあるが、今日は店が定休日だから仕事はなし。アンは、明け方に帰ってきてからずっと眠っているタマラに、聞こえないと知りながらもつい一声かけてしまう。
「行ってくるから」
 出かける用事がアンにはあった。当然、ベッドに体を預けきっているタマラからの返事はない。彼女は少しばかり寝相が悪かった。ベッドからウェーブのかかった髪がわずかはみ出しているし、腕も一本床に落ちかけていた。玄関に来る前に、アンが床の上に投げられていた毛布をかけ直したけれど、寝相までは直せなかった。
 肩をすくめる代わりに眉を持ち上げた後で、大きな妹のいつもの姿に小さく笑った。



 メラン・タウンの町並みも、アンにはすっかりおなじみになっていた。古くて煤けた空虚な建物が並ぶ。高層ビルというほどのものはないが、どこも大抵は四階以上の高さを持つ人の住処は、しかし本当に誰かが住んでいるのかと疑問になるほどに、清潔感がなかった。
 茶色っぽくて、灰色が多くて、人々の顔はなんとなく晴れない。壁の落書きも多い。こちらはカラフルで、ビビッドで派手な色があまりにも目立つのに、町に彩りを添えられるほどの力は持たない。
 町に住む人は、それこそ目つきのよろしくない者もいるものの、声をかければきちんと返答をくれるものもたくさんいる。危ないのはやはり夜で、暗闇にまぎれて彼らは増殖する。不思議と悪巧みは夜行われるらしく、暗くなってからの一人歩きほど危ないものはなかった。
 今は、昼。そろそろ太陽が中天に昇るところだから、人々はまだ善良そうな顔をして道をゆく。もちろん顔立ちが生真面目と判断される人間だからといって、犯罪を起こさない訳ではないが、とにかくアンは昼間のメラン・タウンならばまだ安全と知っていた。ただし、幅が狭くて人通りのまったくない路地裏に入った場合はその限りではない。
 大通りの薬屋の前を通り過ぎた時、ウィンドウに背を向けて立っている少年が目に入った。すぐに通り過ぎてしまって記憶に残るはずがなかった。アンはその薬局を訪れたことはなかったし、興味もなかった。すぐに、次の道にあるタバコ屋に目が向かう。
「気をつけろ」
 一瞬耳をかすめた声。雑音と共にかき消えてしまいそうなくらい、かすかにアンの耳に触れただけだった。五歩進んだところで、気になってしまい彼女は首をゆるりと動かした。先ほど見えた白いシャツの少年の背中が見えたが、しゃべったのは彼だろうか? 少年は、一言目の次に「一人になるな」と告げたような気がした。
 人ごみというほどの大勢の人間が行きかう場所ではないが、ちょうど時間が人通りの多い時期で、その声の持ち主と思しき背中は、人に紛れてすぐに消えてしまった。
 アンはひどく難しい問題をかかえる政治家のような険しい顔をして、人々の歩くのを眺めていた。目的地が他にあるのを思い出すまでそうしていて、やっと彼女はタバコ屋へと向かったのだった。




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