アンのテディ・ベア 昔々、アンとジョージアはあまり広くない共同住宅に住んでいた。世間がどんなものかなんてちっとも知らずに、小さな世界で少女は暮らしていた。
小さな子どもが、自分より少し小さいだけのぬいぐるみを、櫛で撫でていた。 「はい、ジョリー、ブラッシング終わり」 ジョージアはよく家を空けたが、時には一日中アンと過ごす日もあった。アンの母親はラップトップの画面に向けていた顔を我が子に向けると、楽しげに笑った。 「アンは、“ジョリー”が大好きなのね。よかったわね、アン。大事にするのよ」 「うん、あたし、ジョリーだいすき。だってね、あったかいんだよ!」 ぎゅむと少女はクマのぬいぐるみを両手で挟んだ。 「それにね、それに――」 何がアンをひきつけるのか。とにかく、テディ・ベアのジョリーを彼女はいたく気に入っていた。何を話したのか、今となっては記憶にない。 しばらくしてジョージアは立ち上がると、アンの前までやって来て、小さな子どもを抱きしめた。 「あなたのお母さんは、ずーっとあなたが大好きだって事、忘れないでね」 頷くとアンは、彼女の母親の腕の中でゆったりとくつろいで、目を閉じた。
モヘアのぬいぐるみは壁を背にして座っていた。彼女は彼に話しかける。 「ママ、帰ってこないね、ジョリー」 もう、アンがそのまま食べられるような食料もつきた。ジョージアの小銭の隠し場所も知ってるけど、ほんの少ししか残っていなかった。 母親が家に帰らなくなって、アンははじめて危機感を覚えた。それでも、どうしたらいいのか分からない。ジョリーに問いかけても、的確な答えをくれるわけでもなかった。 にわかに扉の向こうが賑わいだ。複数の足音がする。誰かが団体で遊びに来たのだろうか。お隣りの住人には、よくある事だ。 だが、それは勘違いだった。アンの家の前で、ガチャガチャと金属の重なり会う音がして、男が二人、とびこんできた。 そこには共同住宅の大家と、ロイ・フォックス・ワイエスがいた。 「アン……」 まさか、ジョージアの不在を聞きつけてきたのだろうか。ロイが自分の父親だとは知っていた。だけどアンはこんな時に彼が出てくるのはおかしいと感じていた。いくつかの事情を知っても、アンにしてみればロイは親戚のおじさんより近しい存在とは思えなかったのだ。体の横で手を上下させていた男は、アンを何度か盗み見るようにした。 「ジョージアは、どこに?」 「知らない」 知っていたら、わざわざこんなところにはいない。ジョニーと共に探しに行く。 「そうか……」 ロイはやや疲れた顔をしていた。そんな事はアンのあずかり知らぬ事だったが、そのまま意気消沈していればロイが彼女の家にいる事も、忘れてしまえただろう。 「おいで、アン。今日から僕の家で暮らすんだ」 差しのべられた手は、アンが見上げてもゆるがなかった。 彼の地位と、それが引き起こす事件を予測出来れば、アンはその手を取らなかったかもしれない。 それでも、ここにはいない誰かよりはロイの存在を確かに感じられて、少女は小さな手を伸ばしたのだ。
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