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アンのテディ・ベア

1・The beginning of the tale


 

−5−


 雨粒が震えたかのようだった。アンの周囲だけ、一瞬雨滴が避けた。
「ジョリイィッ! ジョリイイ!!」
 少女は敵と見なした青年に飛びかかった。体を強く突き飛ばしたつもりが、青年はわずか身をつつかれただけにしか感じなかったようだ。アンはなおも青年を害するために拳を敵に打ちつける。片手はジョリーを火から守るために火傷をしていたというのに。
「やめろ、アン!」
「ジョリー!」
 危ないと思った時にはアンの体が中に浮いていた。ジョリーはその愛らしい瞳に焦燥と絶望を浮かべる。青年はアンを殺すつもりだ。テディベアなんぞには構わず、今にでも少女のか細い首を手折る事が出来る。
「やめろ、やめてくれ!」
 青年はすぐには行動に移さない。その好機をジョリーは逃すつもりはなかった。ひたとナイフをアンの頬に据える青年は、ボロボロのぬいぐるみなどに意識を配ってはいなかったため、それは可能となったのだ。ジョリーの持つ武器はそのずば抜けた身体能力を誇る肉体のみだが、中でも首元のリボンは飛び抜けて優秀だ。どこまでもとはいかないが三メートル近く伸縮が可能。水玉模様の華やかなリボンは、カッターのように切れ味よく青年の手を斬りつけた。彼の持つナイフ程度には切れ味がある。青年はひるんでアンを落とした。
 急激な動きによって自分の中味がばらばらとこぼれているのが分かるが、ジョリーは止まる事が出来ない。敵を、アンを殺そうとする青年を戦闘不能状態に陥らせてからでなければ、眠る事は出来ない。
 この命にかえても、守らなければ。
「うう!」
 ムチのように青年の首を締めるのはジョリーのピンクのリボン。どうしたらいいのか分からない様子のアンが青年とジョリーに視線をさまよわせている。逃げろ、とジョリーは言うつもりだった。
「ジョリー!」
 ナイフを取りこぼした青年の右手が、テディベアの頭を打つ。ジョリーは衝撃に体をふっ飛ばした。真綿をまき散らしながら。
 青年は首をおさえながら、膝をついた。ジョリーに駆け寄るアンはサイレンの音に気がついていた。だが、青年がうずくまり動きはしない今、ジョリーが見るも無惨な姿になっているこの瞬間、そんなものは些末な事だった。
 降る雨がアンの涙と一体化している。
 自律するぬいぐるみのジョリーは腹部を裂かれ、内臓をごっそりととりこぼして、どう見てももう動かないおもちゃそのものだった。
 火事場に赤い消防車がやって来た。消防士たちは消火活動のためにばたばたと移動する。ひどい雑音だ。雨にも関わらずまだ店は燃えている。
 ジョリーを人間の姿に置き換えると、その悲惨さはより一層分かりやすくなる。腹部を斬り裂かれ、大腸やら小腸やら臓物を辺りに散らかして、あちこち火傷をしている状態なのだから。
「ああっ、ジョリー、ジョリイイィ!」
 アンはジョリーの中味をかき集めた。雨に濡れてぐっしょりとしているそれは泥水までも染み込ませてしまっていた。まだ取り残しがあるかもしれないとアンは左右を見回したが、本体こそが大事なのだと思い知る。自らの体でジョリーを雨から守る。ぬいぐるみの敵は火だけではなく、水もだ。四つん這いになって庇(ひさし)のようにジョリーに雨が落ちるのを防ぐ。
「ジョリー、目を覚まして。何か言って。お願い、ジョリー……!」
 雨で体が冷えてきた。アンには世界が狭く見えた。ジョリーが泥に汚れて、傷を負って、内臓をぶちまけて、もう自律出来ないかもしれない。ただそれだけがアンの世界だった。
 ジョリーが動かない。これまでだって動かない、ただのぬいぐるみだった。でもこの数時間は違った。あの青年だってジョリーがしゃべって動くぬいぐるみだと認めた上で疑問を口にしていたではないか。確かに存在したではないか。だから、必ず返事が出来るはずなのだ。
「ジョリー! 返事して! しゃべれ、バカ!」
 雨から濡れるのは防げても、アンは自分の涙をジョリーに降らせるのだけは防げなかった。
「ジョリー、ジョリー……ジョリー」
「……うるせえな……聞こえてるよ」
 アンの顔が悲しみと安堵に歪んだ。嬉しいのに、それを上回る絶望が彼女の表情をくしゃくしゃに苦しめている。
 今、ジョリーは今わの際に立っているだけかもしれないのだ。むしろ口をきいたのが奇跡に近いくらいだ。ジョリーに降りかかった惨劇からすれば僥倖ぎょうこうと言っていいほどだ。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
 消火活動がひと段落したために周囲の様子をうかがいに回っていたと消防士は一人・・うずくまる少女を見つけた。服のあちこちが煤けているために雑貨店の火事に居合わせたのだろうと定めたが、どうも様子がおかしい。消防士が声をかけても、地面に話しかけるかのように何かをつぶやいている。
「アン……危険を承知でオヤジに連絡しろ……オレはもうだめだ」
「そんな事言わないで! ジョリー! ひどいよ、なんで? ずっと一緒にいてくれるはずでしょ?」
「……悪い……」
 まるで、死にゆく老人のような声。つぶらな瞳も曇っているように見えてしまう。ぐっしょりと濡れたチョコレート色の全身。アンの集めた綿はジョリーの体の近くに散らばっている。
 ジョリーが謝った事により、彼の“死”はより真実味を増してしまった。これから一緒に居られなくてごめん、とでも言うの?
 こわい。命を狙われる事も怖いが、それ以上にジョリーを失う事が恐ろしい。アンは何かひとつでも言葉を口にしたら、ジョリーがもう二度と動かないような気がして唇を震わせたまま物言わぬ置物と化していた。何かを言わなくては、何かでジョリーをこの世界に引き止めなくてはならないのに。アンには何も思いつけなかった。にじむ視界が、ジョリーが、ゆっくりと遠ざかってゆく気がしてならない。
 少女のこぼした目からの雫が、ぬいぐるみのプラスチックの瞳の端に引っ掛かった。
「それがだめなら、南西の……工場に行け」
 本当は行ってほしくはなかった。アンにはまっとうで安全な人生を歩んでほしい。それがジョリーの願いだ。だが、これまでを思えばアンの日常生活は必ずしも安全とは言い難く、父親の部下すら信用出来ない世界に生きているのだ。ならば、動くぬいぐるみの謎を突き止めてほしい。自分はきっと“死ぬ”だろうから、もう一人くらい別に動くぬいぐるみを見つけて味方につけてほしい。そうでなくとも、せめてアンにジョリーを与えた人物に会ってほしい。その人物がジョリーが自律する事実を知っているとは限らないが、もし知っていてアンにジョリーを贈ったのなら、それはアンの身を思っての事だ。ジョリーはただ動くだけのテディベアではない。自分の事だからよく分かる。ジョリーは戦闘型のぬいぐるみ、そのために作られ自律するテディベアだ。それを知ってアンに与えたなら、アンがその者を訪ねても守ってくれるだろう。
「……大丈夫だ……きっと……」
 お前を守る誰かが、オレの他にも居るから。最後まで言い終える事は出来ず、ジョリーは――“死んだ”。
 もう、チョコレート色のぬいぐるみは自律する事が出来なかった。
「あ……あああ……」
 アンにも分かった。ジョリーの“死”が。失われた。なくなってしまった。もうしゃべる事もなく、歩く事なく。何もしない。何も出来ない。
 嫌だ。嫌だいやだいやだいやだ!
 ジョリー! ジョリージョリージョリー!!
 行かないでって言ったじゃん! こわいっていやだってやめてってお願いって!
 揺さぶっても動かない。ずっと揺さぶっているのに。
 何にもなくなった。
「ああっ……ああああああああああああ!!!!」
 雨は変わらず雨量を増やしも減らしもせず、平等に降らせるのだと言わんばかりに地上に降り注いでいた。



  





 あの日から少女の世界は雨続きだ。一度も雨が止んだ事はない。
 消防士に連れられ――ある意味通報され――アンはワイエス家へと帰る事になった。一度は大人しく従った少女は、その身をまる二日眠らせ休養させると再び動き出した。五十センチほどの大きさのカバンを背負って、屋敷を出て行った。
 ロイは今度こそ血眼になって娘を探した。誘拐されたのではなく、自ら娘が家を出て行ったのだ。家出などというかわいい理由ではないと、ロイも心のどこかで感じていた。
 アンの行方は分からない。娘は携帯電話もクレジットカードも捨てて行った。手がかりになるものは何もない。警察に届けを出しても彼らにも手立ては限られている。まさか発信器など娘の体に植えつけていないが、そうすれば良かったとロイは後悔した。
 彼は何も知らない。娘との接し方も、愛情の示し方も。娘が何に興味を持ち、何を嫌がるかを。何故父親をいとうのかも。仕事以外は何も出来ない男なのだという自分を知っていた。自分のせいで、自分の地位と財産と名声が娘の命を危うくさせている事も、分かっていた。だからアンを遠ざけた。何をしたらいいのか分からないからでもあったが、あまりにも自分が娘を溺愛すると“敵”は彼女を利用しようとする。もう手遅れではあったが、体裁だけでもそう取り繕わねば敵はもっとアンを狙う。
 いつも狙われるのはアンばかりだ。だが今度の事は全てがおかしかった。部下の不審な動きも知った。アンと話をすべきだと知った。戻れない道に居るなら、ロイ自身が家族を守るべきなのだと決意した瞬間――娘は消えた。
 まるで彼女の母親みたいに。死んだ正妻との間に子どもはない。だからアンは彼の唯一の子ども。
 だから取り戻さねばならないのに!
 何日かぶりにロイは仕事に戻った。アン捜索から引き離され、渋々というより嫌々ながらも社長室に連れこまれる。だがそこで目にしたのは、思ってもなかった人物だった。
「お久しぶりです、社長」
「君、は――。懐かしい……何年ぶりかね」
 再会の握手を差し出して、その男は微笑んだ。
「そうですね、かれこれ六年振りくらいでしょうか」



 第一部・完




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