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アンのテディ・ベア

1・The beginning of the tale


 

−2−


 ――ママ、どうしてうちにはパパがいないの?
 幼稚園にあずけられる頃には自分の家庭の崩壊具合に気づいていた。
 ――君のパパが悪いんだよ。
 物心がつく頃には、父親を嫌う人間がたくさん居るのだと知っていた。
 ――ジョリー、ママがいないの……
 せっかく手がかからないくらいに成長したのに、母のジョージアはどこかへと消えてしまった。
 これまでずっと、“公然の秘密”としてアンはかの大富豪社長ロイ・フォックス・ワイエスの子どもだと皆に知れていた。しかし突然ジョージアが行方をくらました事により余計な親心を見せたのが、ロイだった。アンを引き取るといい実行に移してしまった。もう正妻は亡くしていたし、丁度いいと思ったのだろうか。それは、アンの身の危険を更に深めさせるだけの結果となった。ロイはアンを正式に娘だと認めたのだ。ならばその娘を自分の利益のために利用しようとするだけだ、という連中の増えるだけ。
 アンの生活は変わらない。富豪の娘、愛人の娘という名前で呼ばれ学校では敬遠される。家には家政婦が居て、仕事をこなすだけのためにやって来ては去ってゆく。変わらず肉親の帰らぬ家。広くなった分だけたちが悪い。
 友人はジョリーだけ。
 ジョリー。ジョリーがいなければアンはとてもじゃないが耐えきれなかっただろう。ジョリーはしゃべらないが、ずっと傍にいてくれる。中身が何であれ、裏切らない。どこにも行かない。



  





 車は高速道路ハイウェイを走っていた。
 衝撃でアンは目を覚ました。何が起きたかは分からないが全身に叩きつけるような力が加わったのが分かる。
「ちっ、追っ手か」
 ぐらぐらする頭を左右に回すと、そこにはジョリーが居た。抱きしめようとしてアンは自分の両手が動かないのに気づく。ガムテープを縄か手錠代わりにして手の動きを封じられているのだ。
「ジョ、」
 車に、二度目の強い衝撃が加わる。一度目と同じく他の車が体当たりしてきた結果だ。背の高い一人の男が銃を手に窓の外に顔を出す。
「このお嬢ちゃんの護衛か何かか?」
「何でもいいから潰しとけ」
 運転手役の男がうなるように命じた。アンは状況がのみこめず、そもそもこの車はどこの誰のものかという点から疑問だった。とはいえ伊達に誘拐され慣れていない。誘拐犯の車の中で、逃亡中なのだろう。少女は伸ばせない手の代わりに少しでもジョリーに近づこうと身じろぎした。頬にあたるふわふわのモヘヤの毛並み、チョコレート色のテディベア。どこかあたたかい気がした。
「ぐっ!」
「げっ」
 その時、二つの事が同時に起きた。銃で攻撃に転じていた男が、同じように銃により手酷い反撃を受け慌てて身を引っ込めた時、運転手は目前に迫る巨大なダンプカーを避けきれずに目を見開いていた。
 ハンドルを切っても到底避けきれぬそれが確実な衝突を物語っているのを、アンも確かに見ていた。隣の若い男がアンに手をかぶせてかばうようにしたが、次の衝撃には何の手だても与えなかった。
 忽然と、轟音。
 誰もその事象に対処出来なかった。与えられた圧力に、引っくり返る世界に、せめて眼球を守ろうとする瞼を動かした。
 アンの乗った車はダンプカーにぶつかるのをギリギリまで防ごうと避けたために、なんとか全面衝突だけは免れた。代わりに車はスピンしながら転倒する。一回転すると、上下が逆になった状態で落ち着いた。彼らの乗っていた車の車体はえぐれ、フロントガラスは砂みたいに細かくなって砕け、辺りに散らばっていた。
 車内の四人は意識を失っているかのようだ。誰も口をきかない。最初にうめき声を上げたのは、一度アンを殴りつけた事のある上背のある男だった。いち早く状況を察し、逆さになった車から飛び出した。そのまま辺りに何があるか把握しようとしたところ、彼は敵がどこに居るかを探るべきだったのだと後悔する。たちまち銃弾の嵐に歓迎され、身を低くして出てきたばかりの車を盾にした。
「おいおい……まじかよ」
「どこのどいつだ、こんなに派手な事するヤツは」
 運転手が助手席から銃器を持ち上げ、雨あられと降る銃弾に顔をしかめる。また、仲間の体に血のあとがある事も険悪な表情にさせた。先ほどの反撃でやられたのだろう。いずれ自分もそうなる。生き抜くためには使えるものは使わなくては。運転手はまだ車内に居る仲間を見やった。
「そいつを盾にしておけ」
「……ああ。だが、相手はこの子が乗っているにも関わらずアレをぶつけてきやがった」
 息の荒くなった男と、アンを盾にしろと言った男、それに頷いた男に囲まれて――少女は大切なジョリーを探して視線をさまよわせた。
 居た。元は天井だった場所に頭を突きつけている車内の人間たちに倣ってジョリーも今は床である天井にこてんと身を投げている。
「ジョリー……」
 弱々しくこぼされた声も、今はジョリーに届かないようだ。
「おい、とにかく出ねぇと蜂の巣だぞ」
 気の短い男が今にも飛び出そうとしている。確かに彼の言い分は正しい。ただし、上手く盾を見つけられなければ車から飛び出した瞬間に彼らが蜂の巣になる。黙って頷いた男二人は、銃を頼りにと動き出す。腕を引かれたアンは慌ててジョリーの名を呼んだ。
「待って、ジョリーが!」
 かつてアンにテディベアを持ってきた若い男がもう一度ぬいぐるみを拾い上げた。彼は次の瞬間、同僚の胸が撃たれるのを見せられた。もう一人、運転手をやっていた仲間もうめいて銃弾を受けたのを知る。若い男は、アンのぬいぐるみを取るために車内にまだ居たために弾丸を受けずに済んでいた。
 我知らず男はアンの体を車の中に引き寄せた。
 何が何だか分からず、これまでの誘拐劇では誘拐犯がこんなにも派手に殺される事はなかった。確かにアンを助けるために人の命は奪われていたが、こんなにも乱雑であっけない終幕はなかった。
「爆弾でも持ってこれば良かったみたいですね」
 どこかで聞いたような声に、誘拐犯のみならずアンまでもが身を固くする。記憶力は良い方だ。アンは目を見張った。
「……あんた……」
 父親のパーティーで見た事のある顔だ。若い、まだ青年のような男。顔は整った方であるのに、表情がなく冷酷そうに見える。パーティーだけではない、父のロイと一緒に居るのを他の場所でも見なかったか?
「悪運は強いんでしたっけ。それも、これまでです」
 青年の向けた銃口はあやまたずアンに向けられていた。アンを助けようと誘拐犯を殺そうとするのではなく。こんな展開、今までなかった。これは誘拐された社長令嬢を助ける救出劇ではなかったのか?
「何だ、お前らは殺し屋か何かか?」
 アンは気づかなかったが目前の青年以外にも車を囲む人間たちがそこかしこに存在した。銃を手にして。まるで、誘拐犯もろともアンを消してしまおうとでも考えているかのように、若い男と少女に銃口を向けている。
 予告もなしに、青年は無言で誘拐犯の生き残りを撃った。すぐ隣のアンには何の気づかいも見せずに。男の手からテディベアのジョリーが転がった。アンの足元に。
 ジョリー。叫べばいいのか、涙すればいいのか、アンには分からなかった。何が、あった。どうして、こうなった。
 人の死を見るのははじめてではない。だがここまで直接的に見せつけられた死、なまあたたかいそれが死骸に変わるのを突きつけられた事は一度もなかった。優しくされてなんかいないが、この、今息絶えた若い男はジョリーをアンに取り戻してくれた。子ども扱いする事なく。
「あ、ああ……」
 青年の顔は今や死神と同じだった。誘拐犯のように全く見知らぬ顔ではないのに、なまじ顔見知りなだけあって気味悪く感じられる。何故、彼はアンを殺そうとするのか。銃口の向きはまたアンに向かっている。
「どうして……」
 せめてジョリーに触れていたい。それなのに、ガムテープが邪魔をする。
「どうして、どうしてあたしを狙うのよ……!」
 涙なんか見せたくない。ただ、睨みつけるしか出来なくても、アンはひるんではいられなかった。
「貴女は社長の邪魔になり過ぎた。弱点にしてはあまりに弱すぎる」
 唐突に青年は答えた。
「……あんた、アイツの、部下?」
 アンが父親を“アイツ”呼ばわりした事が無表情の青年の眉を動かさせたが、それ以外にほとんど変化は見られなかった。
「簡単に誘拐される。簡単に社長に仕事を放り出させる。それでも尚、簡単に社長に反抗する」
 アンは知らない。誘拐された娘を助け出すのにロイがどれだけの力を注ぐか。ただ命令を下すだけでいいのに、彼は全てを投げうって誘拐犯を追う。そのくせ何故か彼自身はアンを助け出せた後に抱きしめる事も慰めの言葉一つかける事なく娘の無事に安堵するだけ。そして、また仕事に戻る。だからアンは何も知らない。
 責任を背負うのはロイだとは彼自身は言うが、全て、サポートするのは部下たちの仕事なのだ。アンは、彼らの仕事をむやみやたらに増やすだけ。もし誘拐が最後まで上手くいったら、社長と会社を危機に陥れるだけ。
「迷惑なんです、貴女の存在は」
 アンもやっと青年以外の自分を取り囲む人間たちに気がついていた。一部に見た顔を含む彼らは、もしかしたら本当に父の部下たち――。
「……なん…で…」
「スーパーマンを見た事が? スパイダーマンでも、バットマンでもいい」
 青年が言わんとしている事の意味が分からない。アンはただ反射的に首を振る。
 ジョリー。あなたが、ここにいてくれたなら。いいえ、足元にいるけれど、隣に立って、その手で支えてくれたなら。アンは震える唇で言葉をつむごうとしたが、青年に遮られてしまう。
「彼らは強い。英雄スーパーヒーローだ。だがいつも、足手まといなヒロイン、彼らの唯一の弱点によって深手を負う。そんなものは必要ない」
 守るものさえなければ、人は強くなれる。どこまでも。青年の言いたい事が分かったような気がした。
 今更ながらにアンは思い知った。この青年は自分を殺そうとしていると。
 ジョリー。こわいよジョリー。いつも一緒にいてくれたでしょ。どうして、今は、あたしを向いてくれないの。
 涙がアンの目の縁にたまる。
「社長の弱点になるくらいなら、貴女は必要ない」
 要らない――。
 存在が迷惑だと突きつけられた時よりも、少女をえぐった。
 ずっと思っていた。ジョリーを抱きしめながら。常に感じていた。ジョリーを撫でながら。帰りを待つのを諦めた時から、気づいていた――。
 ――あたしは、必要ないの……?
 誰も会いに来てくれない。アンに会って心底うれしそうな顔をしてくれるのはジョリーしかいない。父親だって娘を引き取ったのは、まるで世間体のためだと言わんばかりに抱きしめてもくれない。会いにも来ない。ただ弱味になった時だけ――誘拐された時だけ間接的に助けてくれる。自分の不利益になったら困るから。
 何も誰も呼んでくれない。
 こわいよ、ジョリー。ここにあたしを必要としてくれる人がいない事が。こわいよ、ジョリーがぬいぐるみだって事が。こわいよ、ジョリー。こんな程度で自分の人生が終わってしまう事が。
 いやだ。死にたくない。
 ずっとずっと、ジョリーしかいなかった。ジョリーがいてくれたけど、とても大切だけれど、認めたくないけど、ジョリーはぬいぐるみだ。他になかったから。誰もいないから。
 助けてよジョリー。誰か。あなたしかいないのに、あなたはテディベアだ。
 テディベアしかいない――世界。それで終わる、人生。
 そんなのは嫌だ。
「ジョリー……死にたくないよ……」
 ぽつりと雨が落ちた。粒になったそれは、しかしアンの涙の雫だった。
 泣いてんじゃねえよ、アホ。
 刹那聞こえた気がした声は、すぐに安全装置セイフティの外された音でかき消される。青年が何かをしようとしている。アンはそれを阻止せねばならない。
「さようなら、お嬢様」
 あ、死ぬ。力が入らないままの全身に、アンは死を知った。
「なっ?!」
 死の恐怖に目を閉じたアンは、ピンク色の何かが青年の銃を跳ね上げるのを見る事が出来なかった。軽い音を立てて銃が地面に転がる。予想していた衝撃がない事にアンは気づいていたが、まだ目を開ける事が出来なかった。死はあっという間で、もうあの世に着いてしまったのかと思っていたからだ。
「なっ、何だこれは!」
 何かが何かにぶつかるような音がする。うめき声に、誰かが殴らたのではないかとアンは不安になった。あの世にも暴力は存在するのかと、頬をつたう涙を今頃知る。
「何なんだ……あり得ない…!」
「どうかしてる!」
 車を囲んでいた人間たちだろうか、少し離れた場所で声がする。こわごわとアンは目を開けた。
 そこには、あまりにもおかしな光景が広がっていた。だが、アンの望んでいた――未来。
 五十センチもない体躯のチョコレート色のクマが、まるで舞うように男たちを殴打していた。
「ギャア!」
「ぐわっ」
「消えろぉぉ!」
 雑音はアンの耳には入らない。何が起こっているのかは関係ない。
 ジョリー。ジョリーが動いている。まるで生きているみたいに。生物のように。ラジコンカーみたいなぎこちない動きなどではなく、なめらかな動作で敵を打つ。体には綿しか入ってないはずなのに、殴られた男たちは重たい鈍器を打ち付けられたかのようにふっ飛んでゆく。まともな大人なら我が目を疑い、にわかには信じられないだろう。だが彼女は、アンは出会った時からジョリーの相棒だ。相手は本当のパートナーなら、口をきく友人ならと願ってきた、クマのぬいぐるみ。
 アンの大事なジョリー。これまでも、これからも変わらない。
「ジョリー……」
 敵は十人近く居たはずだ。子ども一人に多過ぎるだろうが、アンはそれまで他の人間たちに捕らえられていたのだ、その人間たちを圧倒的力の差で相手を滅ぼしたいと思っていたのだろうか。それは、ジョリーを前にあまり意味のないものとなったのだが。
「ぐえっ!」
 テディベアのジョリーは小さな体で、先の丸まった四肢を使って、暴れ回っている。瞬間長く伸びたような手に殴打され、敵はよろける。そこにジョリーは追い討ちをかけて蹴り上げる。三十センチにも満たない腕と足が、敵を討つ時だけは伸びたように見えるのだ。
 極めつけに、愛らしい見た目のジョリーが持つ最大のチャームポイントであるピンクのリボンがまるでカッターのように敵を斬りつける。かと思えば、滑るようにしなって伸びるとリボンは敵の首を締め付けた。
 まるで戦うために生まれたみたいだった。ジョリーは、戦士のように動いた。つややかに光る黒い瞳は普段と変わらないのに、何かを楽しんでいるかのように見えた。
「ジョリーーーーッ!!」
 確かめたくて、アンは叫んだ。ジョリーは違ってしまったのかもしれない。これまでと。もしかしたら、敵が皆倒れたらどこかへ行ってしまうのかもしれない。まさかとは思うが、アンの見ている幻覚かもしれない。ジョリーは、本当に自律するように動いているのか、確かめたくて。
 ぼぐっと鈍い音がして、最後の男が地面に叩きつけられた。うめくような声がかすかに聞こえる以外、あたり一帯はしんと静まりかえった。まるで今の戦闘などなかったかのように。アンは少しの間だけジョリーの姿を見失った。自分より小さなテディベアだ、地面に着地した際に目線の高さからは消えていただけだった。
「だから、泣くなっつうに」




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