TOP NEXT


アンのテディ・ベア

1・The beginning of the tale


 

−1−


 そのぬいぐるみをアンにくれたのは誰だったか、彼女は覚えていない。おぼろげながらも相手がスーツの成人男性だった事だけは思い出せる。それがアンの父だったか、それとも他の誰だったか、推し量る術はない。
 小さな子どもに与えるには丁度いいそれ――チョコレート色の体躯、ピンク地に白い水玉模様のリボンが結ばれた、黒いつぶらな瞳のテディ・ベア。三歳の時にはアンとほぼ同じ背の高さを誇っていたぬいぐるみは、名前をつけた時からアンのパートナーとなった。
 ジョリーを抱えて走るうちに抱えるのも難しくなったアンはもはやジョリーを引っ張っているだけになっていた。十歳の誕生日を目前とした少女が持つには軽いぬいぐるみ。風にふわふわと揺れて、駆ける少女が手を離せばすぐにでも少女から離れて飛んで落下してしまう。
 駆ける。人気のない路地裏を、夕暮れの中。
「まったく、チョロチョロと……」
 声はすぐ近くからする。アンは自分に絶対の持久力と素晴らしい脚力があるとは思っていない。この逃亡劇は長くは続かないだろう事もよく分かっている。だが現実を知っているからといって大人でも子どもでも、命の危機を目の前に足を止める事など誰が出来ようか。
 アンの振る腕に従って、クマのぬいぐるみ――テディベアのジョリーがガクガクと上下に揺れて風を切る。こんなにも軽い、綿しか入っていないであろうぬいぐるみすら今はアンの動きを衰えさせているようにしか思えない。そんな風に思ってはいけない相手だから、もちろんアンはジョリーを足手まといなどだとは思わない。自分の無力さが腹立たしいだけだ。全身が酸素を求めて苦しげにあえいでいる、アン自身の体がいとわしい。
「ジョリー、ジョリー! どうしようっ…!」
 はじめて会った時より黄ばんでしまった、首のリボンがただひたすらに翻る。風にあおられ、淡い光をかすかに跳ね返す。
 ジョリー。海賊の旗ジョリー・ロジャーの名前からとった名前だ。アンはその当時海賊もののドラマや映画に傾倒していたのだ。
 ジョリー。いつも一緒にいてくれる、大切なアンの友人で、相棒で、唯一無二の存在。他の誰よりもずっと、同じ時間を共有してきた。
 ジョリー。とても無口で多くを語らないけれど、その漆黒の瞳はいつもアンの悩みや悲しみを聞いてくれた。体は抱きしめると、かすかにあたたかかった。
 苦楽を共にした相手だ。今もこうして一緒に“敵”の手から逃れている。だが、アンは絶対の信頼をおく、大切なパートナーの動かない事を今日ほど悲しんだ日はなかった。
 自分が「大富豪の社長の愛人の娘」だと知ったのは、五歳の頃だった。アンの父親ロイ・フォックス・ワイエスの金もしくは技術または何らかの利益を得るために人質をとった賊に、誘拐された挙句に出生の秘密を暴露されたアン。傍らにはジョリーが居た。助け出されるまでアンの支えになってくれたジョリー。
 何度目の誘拐かは分からないが、今回もまたアンを人質として狙う人間に追われていた。
 いつでも微笑みを浮かべているジョリー。アンの心のなぐさめ。
 しかし今回ばかりは、相手が銃を持っている事がアンの余裕をなくさせていた。ジョリーの優しげな瞳が安心させるような眼差しに見えないほどに。誘拐する相手が子どもだからと、これまでの相手は銃を手にしてはこなかった。むしろこれまでがおかしかったのかもしれない。銃を見せつけられただけで、アンはこんなにも冷静さをなくしている。脅しには十分だったろうに、何故今までアンに向けてこなかったのだろうか? そう疑問に思う暇もなかったが、アンは頭が働かなくなってきたのを知る。ジョリーの手を握る感覚も怪しくなってきた。
 ジョリー、助けて、ジョリー。
 背後には、彼女の護衛を倒した男が二人、アンを追ってきていた。分かりやすく顔を隠してサングラスをかけている。それでいて彼らはスーツ姿なのだから、まるでセキュリティポリスのように見えて違和感を覚える。二人とも銃を片手に九歳の子どもを捕らえようとしている。武器の有無、体格差、多勢に無勢、その他にもまだありそうな彼らの有利さに比べれば何故まだアンが捕まらないのか不思議だ。彼らは遊んでいるつもりなのか――。
 突如、アンの両足が言う事を聞かなくなった。まるで座り込みのストライキかのように、少女は体の反乱に出会った。転んだ瞬間に大事な存在を手放してしまった。回転する視界の端へ、ジョリーが飛んで行く。
「丁度良い、ここのあたりで待落ち合う予定だったな」
 さほど時間もかけずに、地に倒れたアンを見下ろす男が現れた。本当に、彼らは何がしたいんだろう。アンはこれまでの誘拐犯にはない要領の悪さを感じていた。
 腕を持ち上げられ、アンは立たされる。やっと銃口を頭にあてられて、アンは引っ立てられた。従うしかないと知りながら、手の中が空なのを知って青ざめた。
「ジョリー! ジョリーッ!」
 道ばたに転がるジョリーは、かわいらしく丸まった尻尾を見せてうつ伏せに昏倒している。アンはお風呂やシャワーの時以外、ジョリーと十分と長い間離れた事がない。シャワーでもないのにあのチョコレート色の毛並みに触れられないなんて、たえられない!
「ジョリー!」
 男の一人、骨太そうで上背のある方が暴れ回る少女の手首をひねる。サングラスの下では顔をしかめながら。
「うるせえな……なんなんだ?」
「あれだろ、ぬいぐるみ」
 上背のある男に比べればまだやせ形の若い男は、顎でチョコレート色のテディベアを示した。彼はアンが逃げる間ひとときもテディベアを離さなかったのを覚えていたのだ。よほど大事なのだろうと思った程度だが。
「ああ……はっ、ガキだな」
 いちいち誰かを子供扱いするヤツほど大人になりきれていないのでは、と相手に思ったがやせ型の男は黙っていた。
「ジョリー! 離して!」
 出会い頭もここまで顔色を変えなかった少女が、ぬいぐるみの事となるとこうも怒気もあらわに叫ぶのが男たちには分からなかった。長身の男など沸点の低さをもってあらわすかのようにアンを握る腕に力をこめた。
「黙れ。殺されたいのか」
 眼前に銃口を突きつけると、少女は目を見開いて息をのんだ。さすがにこれの威力が分からないほどに子供ガキではないか――銃口を突きつけた男は満足した。
「やめて……ジョリー、お願い……」
 テディベアに手を伸ばそうとするアンに、短気な男は苛立った。もうぬいぐるみを抱きしめて指をしゃぶるような年頃ではないだろうに、子ども過ぎる。誘拐する相手がぬいぐるみを求めてわめくような子どもとは。男は銃底で少女の頭部を殴打した。
 簡単に失神したアンは自分を殴りつけた男の方へと倒れこんだ。子どもを抱き上げる仕事仲間に、若い男がサングラスの奥で相手を小さく非難した。
「おいおい……無傷でって話を覚えているか?」
「傷が残らなきゃいいさ」
 と、そこへ黒塗りの車が一台飛ぶようにして滑りこんでくる。彼らの同僚だ。移動手段がやってきて彼らの仕事はよりやりやすくなっただろう。アンを放り込むと、長身の男は車に乗り込んだ。それなのに仲間がやってこないから、短気な男は声をはった。
「おい、何して――」
 目的のアンを捕らえて必要なものは他に何もないはずが、遅れてやってきた若い男はチョコレート色の物体を手にしていた。今回の仕事の相棒は、何をしているんだ? 本気で相手の正気を疑った単細胞男は、車に乗りドアを閉めて何事もなかったかのように振る舞う同僚に眉をひそめた。
「子どもを黙らせるには何も銃だけじゃないだろ」
 確かに、アンは異様な執着をこのテディベアに見せていた。これがあれば少しは大人しくなるだろう。
「そりゃ、そうだろうがな……」
 人の命を虫けらのように扱い、拷問もお手のもの、子どもにだって容赦しない組織で生きてきた。それを思えば彼らほどぬいぐるみが似合わない存在はないだろう。それも、子どものためにわざわざぬいぐるみを拾い上げるというのは、どうにも彼には似合わない。
 やせ形の男は、そっとアンの隣にぬいぐるみを座らせた。常に微笑むジョリーの黒い瞳は無機質に輝いていた。




TOP NEXT

 

inserted by FC2 system