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アンのテディ・ベア

1・The beginning of the tale


 

−3−


 そのぬいぐるみは口を開いたりは、しなかった。だがアンには分かった。ジョリーがしゃべっている。あの、ジョリーが。ぬいぐるみ、素材はモヘヤの毛皮、スエードや綿、糸。手芸屋に行けば見られるものばかりが体につまっているだけのクマの形のぬいぐるみ。
 目の部分の黒いそれは、光彩も瞳孔もなくただ光を反射するだけのプラスチック。だのに、確かにアンを見上げていた。ぶっきらぼうで、どこか面倒くさそうで、かすかにいたわりのにじむ瞳。
 ぬいぐるみは、首元のリボンを音もなく少女の前に舞わせると、アンの両手を拘束するガムテープを切り裂いた。もちろん彼女の手を少しも傷つける事なく、だ。
「ジョリー……なの」
「他に誰がいるってんだ」
 頼もしい、若い男性の声。かわいらしいぬいぐるみにしては少しばかり男らし過ぎるものではあるが、アンが抱いていたイメージから逸脱するほどではなかった。アンのジョリーは、少年のようであってもほしかったが、頼り甲斐のある男性でもあった。ジョリーの名の元になったジョリー・ロジャー――海賊旗から分かるように、アンの中の想像のジョリーは海賊のようなたくましい男だった。ぬいぐるみだけれど、小さなクマだけれど、アンは頼れる存在がほしかったのかもしれない。
「ジョリー……」
 触れたい。あのいつものモヘヤの感覚を確認したい。チョコレート色の毛並みに抱きつきたい。しかしアンはそのどれも出来なかった。
「何度も呼ぶな」
 母親が消えた時からずっと、その前からも、ジョリーがしゃべって動いてアンの前で「大丈夫だ」と言ってくれたらと思っていた。こんな時じゃなくて、あんな風に嫌そうな態度を取られさえしなければ、最高の瞬間なのに。
「ったく、お前は本当にオレがいないと何も出来ねえんだから」
 子どもほどのサイズのクマが近づいて来るのが分かる。てくてく、なんていう間抜けで子どもっぽい足音が似合う足取り。口調は不遜で、だが昔からの馴染みに声をかけるようなもの。
 ああ、ジョリーだ。ぴったりアンの想像通りじゃなくとも、ジョリーはアンがよく知るジョリーで、アンの事もよく知っていてくれる存在なのだと、よく分かった。
「ジョリー!」
 学校にもジョリーは連れて行く。何故ならアンはこのぬいぐるみから離れられないからだ。からかわれたりはしない。曰くつきの噂ばかりつきまとう社長令嬢に、そんな事をする度胸がある者はいないのだ。
 ロイが正式にアンを引き取った時、彼はジョリーを怪訝な顔で見た。完全に子どもを見るような目にひるみながらもアンは、ジョリーを手放したりはしなかった。
 今回だけじゃなく誘拐犯にさらわれた時も、片時も離す事はなかった。
 まるでライナスの毛布ね。いつか家政婦の一人が言った。有名な話だ。かの『ピーナッツ』の登場人物ライナスの“安心毛布”。子どもは何かに執着する事で安心を得るというアレだ。さしずめ“アンのテディ・ベア”というところだろう。
 離す事など、出来ない。
「やめろ」
 抱きしめられたジョリーは迷惑そうだった。丸まった体をしているくせに。十歳にもならないアンよりも小さいくせに。大の大人が頭を撫でられた時のような声を出す。
「ジョリー、ありがとう」
 助けてくれて。アンの声にならない感謝がジョリーにも聞こえた。くすぐったくて、アンの腕に圧迫された体が苦しい。ジョリーは力を加えようと思えばアンのような子どもは簡単に突き飛ばせる。だが、アンにそんな事は出来ない。
「ありがとね、ジョリー。ほんとにありがと……」
「いいから、離せ」
「だってジョリー、ほんとにしゃべってる」
「だったらどうだってんだ」
「なんで動いてんの」
「知るか」
 だが、ジョリーはこうなる事が当たり前の事だと思えていた。生まれる前から決まっていた事項だと。アンには言うつもりはなかったが、こうなるのが必然だと彼は知っていた。まだジョリーには分からない事だらけだ。動けなかった時の事も覚えていない。なのに、アンとはずっと共に居たと分かっている。
「なんでそんなに強いの」
 今度はジョリーは答えなかった。オレだからだろ、と根拠のない自信が満々ではあったが。
「なんで、アイツの部下が……」
 アンは最後まで言えなかった。父親の部下に殺されそうになった。ジョリーがそうつなぎ合わせるのも時間の問題だった。今更、この場所に長く居るのは危険だと思い出す。
「ひとまず、移動するぞ」
 彼らが立っているのは高速道路の真ん中。移動する車はほとんどない。辺りはすっかり夜だった。






 はじめてジョリーに会った日を思い出そうとした。ジョリーが“動き出した”今、アンにジョリーを与えた人物が何かを知っているのではないかと思ったのだ。問題は何故この六年間ジョリーは沈黙を守り続けていたかという点だ。その謎も、ジョリーの贈り主を訪ねる事が出来れば解けるかもしれない。
 男の顔は、朝思い出そうとする夢のように、記憶の中でおぼろげになっている。アンは一体誰からテディベアを受け取った? 今はそれが知りたかった。ジョリー自身も知らないらしい。
 アンはジョリーに連れられて、徒歩で移動していた。高速道路を真っ直ぐに。ワイエス家――父親に連絡すべきかと考えたがジョリーに止められた。アンを狙ったのはロイの部下であるために、また命を狙われるかもしれないからだ。他にアンが頼るところはなかったが、ジョリーは行くべき場所があるかのように歩いていた。
「どこへ行くの」
「あんまり覚えていねえが、オレがたぶん昔居たところだ」
「でも前の事はぜんぜん覚えてないって言ったじゃない」
「製造された時なら覚えてる気がすんだよ」
「誰があたしに引き合わせてくれたかは覚えてないくせに?」
「くせにとか言うな。相変わらずお前は顔と年に似合わず口が悪いな」
 ジョリーは機嫌を損ねたようだが、アンは逆に互いに知己である事を知らされてうれしくなった。
「お前こそ覚えてるべきだろ。オレ様という素晴らしいパートナーに出会えた記念すべき日に何があったかを」
「三歳ってかなり昔だし! それにジョリーに会えたから他の事は全部どうでもよくなって」
 ジョリーは半分以上冗談で自分を褒め称えたが、アンはかなりの本気さで応じてくれた。むしろジョリーは返事に困る。ただ二人の見解は“社長令嬢にテディベアをあげた男”が何かを知っているというところで一致していた。
「素直に考えてお前のオヤジじゃねえのか」
「素直なジョリーって気持ち悪い」
 ぬいぐるみの黒い瞳はプラスチックのくせにうんざりとしてすがめられたように見えた。そんな事を気にするアンではないが。
「たぶん違うわ。“アイツ”は、何度も誕生日プレゼントを寄越したけど、ぬいぐるみをくれた事は一度もなかった」
 一度あげたからこそ、それをアンが気に入ったからこそもうぬいぐるみは必要ないのだと判断したのではないか。ジョリーは思ったが口にはしなかった。
「でもアイツが傍に居たような気はする。アイツは、ママが……いなくなる前からこっそりあたしを会社に呼び出していたから」
 ロイ・フォックス・ワイエスはアンが“愛人の娘”という自分を知る前からアンの知り合いであった。何がきっかけかは分からないが、いつの間にかアンの予定の中には自分の父とは知らない相手の元に行くという行事が加えられていたのだ。その過去の記憶の中で、ロイがジョリー贈呈の場面シーンに居合わせていた。そんな気がしている。その時に、ロイかその知人にテディベアを贈られたのだ。アンはそう思っている。
「とにかく、今はお前の身の安全が保障される場所へ行かなければならない」
 クマは言った。つぶらな瞳にピンクのリボンなどという見た目に反してとても頼もしげに。
「ジョリー……!」
 何に感激したのか、また抱きしめようとするアンから逃れるため、ジョリーは奮闘せねばならなかった。




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