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 ドロシーはかつての栄光のピアニストだ。今は日雇いの、規模の小さい催しものの一角で音楽を奏でるだけの存在。ある日突然不自由になった右足のせいだ。元からなかった才能が途切れてしまったのかもしれない。とにかく場末に追いやられたただの楽師に、目をかける者などなかった。夜会の会場でダレルに見咎められるまでは。彼の事が嫌いだ。ドロシーがピアノを弾く時間を奪うからだ。ポンコツの右足と一緒だ。ドロシーからピアノを奪った右足。
「やあ」
 屋敷の裏口から出てきたドロシーを待ち構えていたのはダレル・フェアフィールド。きっとドロシーの右足以上に忌々しい存在。
 相手を無視し、不恰好に歩くドロシーを、ダレルは焦りながらも引きとめた。
「待ってくれ、条件を聞こう。どんな理由があれば俺の同行を許してくれるかな」
「まさか、私の家に来るとでも?」
 テレビの前で他者を罵倒した政治家でも見るみたいな目でドロシーが振り返ったので、ダレルは慌てて訂正する。
「いや、どうしたら 食事 ディナー にご一緒してくれるのか、っていう意味だ」
 尚も非常に胡散臭いものを見る目をやめないドロシーに、ダレルは言葉選びの難しさを思い知る。
「世界にたった一つしかレストランがなくて、そこに客としてあなたがいたらの場合、他に行くところがないので同じ店に入ってもいいでしょうね」
 もらえた返事もすげなく、ドロシーは気丈に立って、歩き出す。ダレルは半ば呆れながらも諦めかけ、せめて彼女と歩く時間だけは確保しようと後を追う。
「それなら、お気に入りのレストランを言ってくれ。そこ以外は全部つぶそう」
「そんな事、出来ないくせに」
「それくらいの気持ちでもって君を食事に誘っているんだ」
 分かるだろう? というダレルの懇願は効力を持たない。ドロシーはむしろその“嘘”にうんざりしたようだ。無言になった彼女に、ダレルは自分の意思に反して動く舌が恨めしくなる。真実にはなり得ない事ばかり口にするからドロシーの信用を勝ち得ないのだろうか? 一種の冗談や、場の空気を円満に保つ言葉のあやだと思っているのだが、彼女にとってはそうではないらしい。ドロシーは、人に真摯に接してほしいのだ。
「では……今の言葉を真実にするのと、他の真実を口にするのと、どちらがいい?」
 言われて、ドロシーは頭が混乱した。彼女の困惑が分かったのだろう。ダレルはゆっくりと繰り返す。
「君の信頼がほしい。レストランを買収するか塵に帰す。そうでなければ君にちっぽけな真実をあげよう」
 ダレルの瞳は、ドロシーを見ている。まるで過去に嘘など一度もついた事のない人間のように、誠実そうに見えるくらいに、真剣そのもの。彼が本当に世界のレストランをたった一つにしてしまえる力があると思い込みそうになる。信じ込みそうになるが――彼のいう“ちっぽけな真実”とは何を指すのだろう。
「真実なんて、いつもちっぽけなものだわ」
 それを了承と取ったダレルは、首を捻る事で喜色に満ちた顔をドロシーから隠した。それに、ドロシーと長い間目を合わせておくのは彼にとって問題なのだ。
「実はもう、レストランの予約を二人分、取ってあるんだ」
 想像していたものと違って、ドロシーは拍子抜けした。用意周到なのだか、気が早すぎるのか。まだ決まってもない家族旅行の話を聞いてはしゃぐ子どもみたいだ。ほころびそうになる口元を引き締めると、ダレルが彼女を向いてないのをいい事に、わざとぎゅっと眉を寄せてみる。
「では、お一人で行ってらっしゃいませ」
「さっきも言ったのに、もう一度直接的に言わないと駄目なのかな。ドロシー、君と俺との二人で、これから食事をしませんか?」
 ダレルはドロシーに顔を向けていた。彼女がついと視線を合わせると、慌ててそれをさまよわせ――それでも顔を逸らしたりはしなかった。
「しつこいのだとお思いなら、これで最後にするから」
 まるで片思い中の人間が思い出だけでも作ろうとしているかのような嘆願。ドロシーはこの日、いつもより疲れていた。右足からくる体の疲労は元より、いつも以上に他人と接する機会を与えられて辟易していた。それなのに、まだこの男と会話を続けなければならないのか。それでも、ダレルの申し入れは今後を思えば楽になるように感じられた。一回ディナーにつきあうだけで、もうつきまとわれなくなるのだろう。それならば。
「……分かったわ」
 ダレルが長年にわたる研究の成果が出てほっとした研究員みたいな顔をしたので、ドロシーはちょっとだけ承諾を後悔した。この男が約束を守るなんて事があるのかしら? そう思ったからでもあるが、自分の頬が盛り上がりそうになって困ったのだ。

 ドビュッシーの夢想。高級そうなレストランのどこにもピアノは置かれていなかったから、音楽再生機器を通しての音色だろう。ドロシーはこの選曲に満足した。
「この曲は本当に夢を描いているみたいだわ。甘くて、切なくて、まるで届かないものに手を伸ばしているかのよう。それでもきっと、届かないままなのにうっとりと眠るんだわ」
 アルコールなど一滴も飲んでいないのに、ドロシーは自分の意に反してしゃべり出す口に驚き手で押さえた。何を夢見がちな少女のように語っているのだろう。顔が熱くなっているのが分かる。
 食事はとても美味しく気分がよくなっていたのだろうか。お気に入りの音楽に、素晴らしい料理。それから相手がダレル・フェアフィールドではなければ、最高だったろうに。
「……仮にも音楽に携わる人間なら、もっと学術的な事を語れと、お思いでしょうね」
 自らの言葉に自身で横槍を入れて少し憤った様子のドロシーに、正面に座るダレルはちらと視線をやった。彼は右手で頬杖をつき、残る手で赤いワインのグラスを揺らしていた。時折手の中のグラスを見つめて、ふと思い出したようにドロシーに目をやるだけ。
 このレストランに来て、どうにも彼は寡黙になってしまったようだ。そのせいでもあるのだろう、ドロシーがおしゃべりになってしまったのは。気まずくはないが、沈黙を保ち続けるのははばかられる。
「いや。俺の方こそ音楽にも造詣の深い自分を演出できなくて残念だ」
 小さく笑むと、ダレルは急に顔をしかめた。「何?」ドロシーはここまで来た事に後悔をしながら問いかける。
「今ので君が自分の事を話すのをやめてしまうのではないかと思って、もっと気の利いた事を言うべきだった、と」
「自分の事なんて話してないわよ」
「でもドビュッシーを聴いて君が思った事だろう?」
 ダレルの手がグラスを手放すのを見ながら、ドロシーは相手にいつもの調子が戻ってきたのだろうかと、少しだけ息が楽になったのを知る。
 スピーカーからのドビュッシーが終わり、音楽再生機器の放出する振動が、ハチャトリアンの仮面舞踏会のワルツへと変わる。出し抜けにレストランの空気が静から動へと変わったのが分かる。まどろみの中から煌々と輝く明かりの下に連れてこられたかのようだ。
「あんなのは感想にすぎないわ。所感じゃ音楽なんて語れないもの、意味なんてない」
「そうかな。音楽っていうものは、一人一人感じるものが異なるから素晴らしいものだと考えているんだが」
 机上のワイングラスとドロシーを行ったり来たりしていたダレルの視線がドロシーで固定された。
「あなたって、自分に都合のいい言葉ばかり口にしてるみたい」
「そりゃそうだ。誰だって自分を通してしか世界を見られない。言葉だって一緒だろう」
 なんという理屈だろう。確かに、人はいつだって自分の主観からは離れ切れないのかもしれないけれど。ドロシーは笑ってしまった。ここがどこで、相手が誰であるかを忘れてしまっていた。誘いを受けたのはそう悪い事ではなかったかもしれないと、錯覚していた。

 レストランを出ると冷えた風が二人に吹きつけてきて、揃って肩をそびやかした。店を出る前から会話は減った。お互いにこれが最後と分かっていたからだろう。レストランを出て、歩く事もせずドロシーとダレルは沈黙を守るのに専念していた。
 ドロシーにしてみても、名残惜しいという気持ちこそないものの、何と告げてダレルと別れたらいいのか分からなかった。これでつきまとわれる事もなくなると、すっきりしていいはずなのに。店の中では座っていて楽になっていた右足も、存在を訴えるかのようにまた重たくなってきた。まるで今の彼らの間をただよう空気のように。
「さよならのキスを」
 唐突に言われて、ドロシーは戸惑ってしまった。最後だからと言われてしまうと拒む事が難しくなってくる頼みだから。
 どうしたらいいか分からず、顔に触れられるのは嫌だったので、右手を差し出した。ダレルは不満そうだったが、ドロシーがそれを引っ込める気配がないのでその手をとった。
 手にキスをするために、顔はうつむいていたというのに、ダレルの瞳はまっすぐにドロシーを見つめていた。挑発的な、獣の目。それでいて少し、悲しみと憂いを帯びる。唇を離してからは、ドロシーの手に視線を注ぐ。彼女の五指を宇宙人のものだと思っているかのようにじっくりと眺めて離さない。触れられている手がくすぐったくて、ほんの少し熱かった。ドロシーはその熱が相手に移るのを恐れ、急いで自分の手を取り返した。
「ディナー、ごちそうさま」
 それだけ言うと、ドロシーは踵を返した。料理は美味しかったし、店の雰囲気は悪くなかった。だからそれくらいは言ってもいいと思ったのだ。ダレルは「タクシーを」と車を自分の下へと呼び寄せた。ドロシーの手をもう一度取ってゆっくり引き寄せると、タクシーの中に押し込んだ。一度もドロシーの顔を見なかった。
 ガラス越しについダレルを見上げると、彼は何かを堪えるような苦しそうな顔をしていた。彼は、本当にドロシーとの別れをこれで最後にしようとしている? それを悲しんでいるのだろうか? 動き出した車が、ゆるやかにダレルの姿を背後に置き去りにする。ドロシーは首を曲げてみた。もう表情なんて見えないくらいに遠くなってしまって、見えなくなるまで彼女は彼を見つめていた。
 そういえば彼があんな風に長い間ドロシーを見つめるのははじめてだった。ドロシーをからかうように、親しげに話しかけるくせに彼は人見知りする小さな子供のように、彼女と目が合うとすぐ他所を向いてばかりいたから。
 今日のダレルはこれまでに接してきた彼より真っ当だった。だからこそ、ドロシーには不釣合いな人。彼女は自分の身分をよく理解していた。現代の社会は貴族がいない分、富裕層がそれに取って代わっただけ。身分違いんて古臭い事は思わないが、そうでなくともこの右足を抱えるドロシーには見合う人など居ない。
 昔も今も、ドロシーにはピアノが全て。白と黒の世界に没頭していれば、きっと彼の事も忘れられる。何もはじまらなかった関係は、すぐに余白に変わるだろう。目覚めたら忘れる夢のように。届かなかった事も忘れて、夢想していた事もなくなる。
 遠い未来に思いをはせた時、体中に感情が溢れそうになった。それが何かは分からない。ただ破裂しそうなそれを押さえ込むように、ドロシーは自身の両腕を抱きしめただけだった。
 




  

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