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つのをあなたに


  −1−
 

 それをこなすのは容易ではない。だが彼女の矜持が足を動かしていた。ただ自分を弱い人間だと見せたくない一心で、長い指で弱い足を隠す。
「ごきげんよう」
「こんばんは」
 装いは宵闇の下でも輝けるようにと艶やかできらきらしい。その中でただ一人、身のどこにも装飾品をつけていない女性がいた。少女のように細身だが、背は低くも高くもない。
 入り口から奥へと進むと現れる広いホールの下、照明の光を反射させ人々は華やぐ。彼らは日のない夜でもきらめきをその身に受けようとやってきた者たちばかり。流行の衣装を着、それぞれの益になる事を、自尊心を満足させる相手と、自分のために口を開く。
「稀少なワインが手に入りましてな、是非貴殿と、と思いまして」
「それで、その殿方はわたくしになんとおっしゃったと思います?」
「では、一度我が社の商品をお試しになってください」
「残念だけれど、あの方はおすすめしないわ、あら、何故ですって? それはね……」
「困るのは其方だろう、いつまで強情を?」
 己の事しか主張しない彼らは、その社交の場を彩るものに気がつく事はない。磨きこまれた食器に置物、常に新鮮なものを揃えた食事、色とりどりに咲き誇る花々。カーテン一つ取っても丹念に計算された重ね方をしているというのに、彼らはその裏にあるものを何も知らない。テーブルクロスを真っ白に保ち、ぴんとしわ一つない完璧な姿に仕上げるのに、どれだけの人間がどれだけの時間をかけてきたか知る由もないし知ろうとも思わないだろう。楽の音を奏でる楽師たちが何のためにそこに居てそうしているのかも、見当がつかないだろう。その一つなのだ、ドロシーが座る椅子の前にあるものも、彼らには何だか分からないに違いない。
 今夜もドロシーはピアノを任されている。“場にふさわしい音楽であれば何でもいい”というリクエストの元、鍵盤を沈ませる。夜会にショパンの 夜想曲 ノクターン という自分の安易な発想には鼻で笑いたくなるが、どうせ何を弾いても彼らの耳には届かないに違いない。
 七色の音色を奏でる間だけは足の事もドロシーとは無関係になる。この一瞬は何も勝る素晴らしい時間なのだ、この際ピアノを弾けるのならどんな曲だっていい。彼女が自分を取り戻せるのはこの瞬間しかないのだ。
 それでも、 制限時間 タイムリミット は刻々と迫ってくる。足のせいか病気のせいか何にしろ、ドロシーが長時間音楽を奏で続ける事は出来ない。右足の不調がとてもうるさく、指にも力みが生じてくる。たった一本の足がドロシーの体全てを阻害する。右足からじわじわと侵食してくる痛みは、いずれ精神もむしばむほどに肉体全てを支配する。苛立ちが彼女に浸入してくる。
 少し休もうと決め、ショパンを終わらせて、長い長い息を吐き出す。これまで我慢してきたものだ。これを出すと全て終わってしまったように感じる。せっかくの鍵盤の時間がなくなってしまったのだ。ドロシーがドロシーでいられる間が、泡のようにはじけてしまったのが分かる。ピアノがなくとも、夜会はなめらかに進行していく。一体何の意味があってドロシーはここに居るのだろう。彼女自身はピアノが弾ければ何でもいいが、彼らは音楽を必要としてはいない。ここでなくとも音楽は奏でられる、出来ればどこかちゃんとした人間の居る世界で鍵盤を叩きたかった。
 痛む足を休ませている間も右足はドロシーの健全な精神を蝕んでいく。もう膝の上まで鈍い痛みを訴えてくる。今少し、休ませる時間が必要だ。ドロシーがドロシーでいられない、苦痛の時間。
 奇妙にカーブを形作る、グランドピアノ。黒曜石のようにシャンデリアの光を反射して、まるで宝石だ。ピアノ、不思議な楽器だ。弦をハンマーで叩いて音を出そうなどと、一体どういう発想で思いついたのだろう、先人の知恵には驚かされる。この奇妙に大きくて重厚なピアノが、たった一台で三次元的な深みと奥行きのある音を奏でるのだ。十本の指とこの鍵盤楽器で、長い歴史と厚みを持った書籍のように重みがあり、何度も絵の具を重ねた絵画のように色鮮やかで、長い計算の後に生み出された数式のように美しく、五感の奥を刺激する旋律を奏でる。もちろんモノクロの鍵盤を叩く指の持ち主が音楽の才能を備えていなければ、その振動が生み出す芸術は芸術足りえない。ドロシーは自分に才能があるとは思っていないが、重ねた練習だけは人一倍だと信じている。だからこそピアノを弾く間だけ、なりたい自分になれる。けれどこれを突然失って、明日はピアノのオファーが来なかったら? と、手に入らないかもしれない未来に怯える。
 一つ鍵盤を押し込むと、清らかな音色が意味のない振動となって空中に飛んで行く。ドロシーはこうした音のひとつになりたかった。ぽんと鳴ると、人の耳に届く存在。目には見えないが、他のどの感覚よりもはっきりと人の心に何かを残す。触覚よりも、視覚よりも、嗅覚よりも、味覚よりも、心臓に直接訴えてくる。そんなものになりたかった。絵画や彫刻など視覚情報による芸術だって好きだ。絹や 天鵞絨 ビロード のような心地よい手触りも、ごつごつした木肌を触るのも嫌いではない。鼻腔をくすぐる香辛料を嗅ぐのだって悪くはない。もちろんそれを口に含んで舌で味わうのも。だが音楽には、意味のある音には、美しい振動には叶わない。ドロシーは音楽を愛している。七つの音を奏でる事に心血を注いでいる。
 だが世界はドロシーを愛してはいなかったのだろう。こんなところに追いやられるのではなければ、彼女は神だって信じていたはずだ。右足が彼女の前途を阻むまでは全て順調だったのに。
 ドロシーの雇い主が、鳴り止んだ音楽の再開を催促するために彼女を睨みつけていたのだが、遠くにあってドロシーは目を伏せているため気づかない。まるで目に見えぬ何かを探るため一部五感を遮断しているかのようだ。
「よく出来た彫刻だ」
 不快な音に邪魔されるまで、ドロシーは瞼の下で黄金色の音を聴いていたというのに。
 目の蓋を持ち上げ、水晶体の中に入ってきた映像に顔をしかめる。
「またあなたなの」
 ドロシーは額にしわ寄せ、嫌悪をあらわにする。それを受けて相手はむしろ楽しそうにしてみせた。あまり上品とはいえないが、粗野というのでもない、どこか皮肉な笑みだ。
「驚いた。ピュグマリオンにでもなった気分だ」
 ダレル・フェアフィールド。このお行儀のよい社交の場では少しばかり襟元がゆるんでいるようだが、きちんと身なりを整えた青年。夜会で唯一ドロシーの事を視界に入れる事が出来る人物だ。彼は演奏の邪魔をする。そして、今のような持って回った彼の台詞が大嫌いであった。足の事があってからは、ドロシーの容姿など「美しいのにあの足じゃ」という“豚に薔薇”の代名詞のように使われてきたから、ダレルが言う神話の中の人間になった 彫刻 ガラテア と一緒にされるのはごめんだった。ダレルがピュグマリオン王であってドロシーが彫刻だと言うのなら、まるで彼は王のようにドロシーに恋しているかのようではないか。いい迷惑だったが、ダレルがドロシーに対して真剣なおつきあいを考えているようには全く見えない。彼は心にもない言葉を口にしてドロシーをからかうだけ、彼女が苛立ちを見せたらすぐに退散するだけ。
「何か用なの」
 言ってから、黙って演奏を再開させればよかったと後悔する。ドロシーは自分の仕事に戻って、彼を相手にしなければよかったのだ。
「さあ、何だったか。アフロディーテのような君の美しさを前にして、全てが消え去ってしまった」
 あんな移り気な女と一緒にしないで、と言葉にしかけてやめた。どうせダレルは美と愛の女神が幾人もの男と浮名を流した事になど興味はないのだ。神話から引っ張り出して自分の言葉に壮大さを与えたかっただけ。
「ではあなたもどうぞ、その“全て”とご一緒に退散なさったらいかが」
「ふむ、今宵の君はアルテミスのように手厳しい」
「アクタイオンのようになりたくなければ、早々にここを去るべきね」
 この神話修辞ごっこがいつまで続くのか分からないが、早速ドロシーは言葉を直接的なものにする。 狩りの女神 アルテミス の怒りを買って矢に射られるといい、そういう意味をもこめて。
 ダレルはドロシーに近づいてこない。彼の指定席はグランドピアノの少し窪んだところ、鍵盤から離れた場所だ。紳士的な距離を保ったままに淑女に接する。
「女神の裸身を盗み見た覚えはないのだが、そのためだったら何頭の犬とも戦おう」
「あなたのそういうところが、嫌いよ」
 女神アルテミスは沐浴の瞬間をアクタイオンに覗かれ、怒ってアクタイオンを鹿に変え犬たちに襲わせる。ドロシーをアルテミスにたとえるというなら、ドロシーの裸を見たいと公言しているようなものだ。たとえそれが真実で、そんな事にはなり得ないと分かっていても、そんな場面を想像させる一言は必要ない。一歩嫌味に踏み込んで言えば、下品な冗談、だ。それでもきっとドロシーにはやましい心を抱いているのではないだろう。彼はドロシーをきちんと正面から見た事などない。ごく稀にホールの隅でピアノを弾くドロシーを見つけ出し声をかけてくる男性もいるが、彼らのような“意味深”な瞳を向けてきた事は一度もない。ダレルはただ暇つぶしの相手にドロシーを選んでいるにすぎない。
「残念だな。俺は君のそういうところが好きなんだが」
 “そういうところ”がどこを指しているのか気にはなったが、わざわざ問うようなドロシーではない。やはり自分の作業に専念しようと両手の指をモノクロの鍵盤に広げる。シューベルトを選んだのに特に理由はない。ただ、彼の音楽は嫌いではなかったから、嫌いな人間を前にして親しみを持てるものが何か一つでもほしかったのかもしれない。十本の指がそれぞれ奏でたのは、どこか辛気臭いところのある 小夜曲 セレナーデ 。ドロシーも明るい曲ではないと思いながら好きな曲だ。彼女は明るい曲調よりも、どちらかというと暗い印象を与える曲調の方が好きだった。何故だかは分からない。いつからか彼女に巣食うようになった、後ろ向きの精神と合致するところがあるからかもしれない。もう二度と、あの明るい場所には立てないと知っているからかもしれない。
 引きつるかのように自由を失っていく右の足が、とっくにペダルも踏めなくなっていたのに石のようになっていく。彫刻から人間になったガラテアとは正反対に、ドロシーは大理石の彫刻になろうとしているかのようだった。重たい半身だ。ピュグマリオンが覚えた感動とは反対の方向に向かう、命を失っていく、気の遠くなるような思いに脳内が侵食されていく。一度、左の薬指を上手く動かしそこねた。足がああだから、自由な手の指だけはミスをさせたくないのに。苦いものがドロシーの中に広がっていく。
 静かでありながらも盛り上がりのある曲を弾くには、苛立ちをぶつけるような情熱があふれすぎている。ダレルは今の演奏にそう評価を下した。彼は自分の存在を無視してピアノを叩くのに没頭しているドロシーを飽きる事なく見つめていた。二つの目で、真っ直ぐに。
 明るいだけの曲は彼女には似合わない。社交辞令の一部のような作り上げた笑みではなく、ほんのわずか口元を上げるだけのそれで、ダレルは瞳の中のドロシーを見つめ続けた。
 いつの間にか夜会はほとんど解散の域にまで達していた。閑散としてきたホールに音楽は必要なくなった。それを教えるためにドロシーの雇い主がゆっくりとやってくる。シューベルトを次の曲に変えようと思っていたドロシーは、咳払いによってそれを止められる。
「もう今日は帰ってよろしい」
 ただそれだけ。ねぎらいの言葉一つない。いつもの事でドロシーは慣れたものだったが、ダレルはそっと眉を寄せた。仕方がない、ドロシーはかつての音楽界の寵児、しかし今は落ちぶれた元人気者。有力なパトロンを失った彼女にはその日払いの細々とした仕事だけが頼りだ。雇い主がノーと言ったらドロシーは職を失うのだ。
「なあ、ドロシー。君さえよければこれからどこかの店に行かないか?」
 去っていった雇い主を視界から遮るようにドロシーの前に立ちはだかると、ダレルは提案してきた。ドロシーは椅子の背をしっかりと握ってから立ち上がる。決してよろけてはいけない。右足はもうまともに動かないが、気力でそれをねじ伏せる。動かなくたって、動いているように見せるのだ。
「今が何時だとお思いで? 子供は帰って寝る時間よ」
 ダレルはどんな悪態をついても嫌がらないのに、子供扱いをひどく嫌う。やはり交渉が決裂した商人みたいに不機嫌になる。
「君は、どうしていつもそうなんだ?」
 夜会の会場には招待客がいなくなっていた。これから着替えて帰宅するドロシーも、すぐにホールからいなくなるだろう。ダレルがそこに立ってさえいなければ。二本の足では歩けないけれど、まるで右足が動くかのように振舞わねばならず、ドロシーはダレルの対応がおろそかになっていた。
「なあ」
 手首を掴まれて、必死に保ってきたバランスを崩される。近づきかけた地面、叫びそうになったところを、ダレルに支えられる。
「離して」
 彼のせいでドロシーは体の体勢を崩してしまった。それなのに彼に支えられて立つなんてまっぴらごめんだ。
「いつも、俺の言う事なんて信じていない。違うか? 信用なんてしないもんな」
「そうよ、その通り。だったらどうだっていうの」
「どうして信じない」
「あなたの言葉には誠意がないわ」
「どうしてそう言い切れる」
「あなたは私の目を見て話さないじゃない」
「そんな事はない」
「――人間の作る音は嘘ばかり」
 ぐっと、相手の胸を押しやった。ドロシーは転びそうになるのを覚悟で無理矢理にダレルから離れようとしたのだ。意外にも、それを押しとどめるような妨害は入らなかった。
「ドロシー」
 挨拶のひとつもなしにそのピアニストはホールを後にした。隠す事の出来ぬ右足を引きずる姿をダレルに見せながら。ドロシーは背中に降ってきた声が持っていた音の響きも、こめられた感情も何もかも自分と関係ないものだと見なして、控え室へのドアへと消えた。
 




  

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