アンのテディ・ベア −6− 日中から空を陣取っていた雲が動き出して、夜の空は晴れてきた。雲がまだあちこちに残るものの、ずっと遠くで小さな星がまるく光っている。風があるのか雲がゆるやかに移動しているが、それは地上でも同じだった。少女は微風に長いこげ茶の髪をなびかせる。
「ひどい格好だね。ぼくならすぐに換えの服を用意できるけど?」 すっかり忘れていた存在に声をかけられて、アンは彼が意外と近くにいたんだなと思っただけだった。ひどい格好とは、路地裏での転倒で身につけた埃や、火事場で飛びついてきた煤のことを言っているのだろう。確かに、この青地のスカートなんかは叩いたらよく埃が飛びそうだ。 アンは聞こえなかったことにする。あの少年がアンの敵じゃないとは言い切れない。目立つ存在らしい彼らのせいで、アンは仔細の分からぬ相手から、追い立てられることになったのだから。 歩みを止めないアンの後を二人の人間が追ってくるのがわかる。一人はずっと黙したままで、もう一人は声をやや苛立たせていた。 「きみ、自分の立場、分かってる?」 「うるさい。どっか消えて」 腹立ちのあまり少年は立ち止まり、言葉をなくした。追いついた眼鏡の少女はアンと同行者の少年の間で視線を行き来させ、声も立てずに歯を見せて笑う。 「……笑ってんじゃねえよ、リラ」 不本意な顔をしつつも、少年がこの少女の笑顔を以前見たのはかなり昔で、珍しい光景につい相手を見てしまった。その上、さっきのやり取りのどこに微笑みを誘うところがあったのか問いただしたい気分でいっぱいだ。が、今はそんなことをしている場合ではない。自分の中に残る苛立ちを無理やりに黙らせると、先を行くアンのところへと足を運ぶ。彼女は目的地があるかのように先へと進むが、行く当てなど、あるはずがないのだ。 「紹介が遅れたね。アンジェリカ、ぼくはネッド」 一からはじめるべきかと大人になって、少年は名乗り出ることにしたらしい。アンは振り返って足を止める。ただひとつ訂正すべきところを見つけたがために。 「アンジェリカって呼ばないで」 自己紹介の途中で話を遮られてむっとしたネッドを後目に、眼鏡の少女はアンをじっと見据えるだけ。本当に対照的な二人だった。 「……オーケイ、アン。ぼくのこともネッドで構わない。それからこっちはリラ」 相手の命令には了承したし、紹介は済ました。次はそちらの番だ、と目で訴えてくる少年に、アンは応える気にはなれなかった。彼らはどうやらアンのフルネームもよく知っているみたいだし、これ以上言葉を重ねる必要はない。 またも聞く耳を持たないまま背を向けて、歩き出したアンにネッドは一気に顔をしかめる。「おい」と呼びかけるより先に彼の手はアンの肩を掴んでいた。アンは振り払おうと手を伸ばすが、ネッドの顔つきが怒りまじりの真剣なものだと気づいた。 「動くぬいぐるみのこと、知りたくないのか」 この言葉は効果的だった。アンの手が止まる。 そんなこと、当たり前だ。 アン一人では、ろくな情報を手に入れることはできなかった。というより、得たものはないと言っていい。この一年何をしていたのか――本人は自覚していないが、大切なものを失った喪失感を埋めるために使った一年だったのかもしれない――彼女は何ひとつ手にしていない。 それを、ネッドとかいうこの少年は持っているというのだろうか? 「ぼくらは君に情報をあげることができる。君も、ぼくらの知らない情報を持っているはずだ」 アンの青い瞳が探るように動くのを見て、ネッドは訳知り顔で目を細めた。その顔が、アンはひどく気に入らない。アンのことを、ジョリーのことを、何も知らないくせに。 足が小刻みに地面を蹴るのを、アンは止められなかった。自分の顔が今まで以上に険しい顔になっているのも分かっていて、やめられそうにはない。 自分が優位に立っているとは思わないでもらいたい。ネッドを改めて観察すると、もうあの白いウサギはカバンにしまわれてしまったようだ。きっと、あちらにとってはぬいぐるみはその程度のものなのだろう。 「君の友軍になれると言ったけれど、それは利害関係で一致する連合国のようなもの。どうだい、しばらく行動を共にした方がお互い助かることがあると思うんだけど」 変に仲間意識を持たれて、“同じ動くぬいぐるみを持つ者同士、仲良くしよう”と言われるよりは、まだましだった。友情なんていう不確かなものを信じるよりは、利害関係のつながりの方がまだ説得力がある。何しろアンと彼らは初対面。一度すれ違ったことはあれど、会話をするのは今日がはじめてだ。 「分かりやすいだろ?」 まるでアンの性格を読んでの作戦のようだった。アンが、変な連帯感にほだされるような人間ではないと知っているかのよう。 時折、思い出したように風が吹き付ける。ふわりと視界が髪で埋まって、アンは瞬間茶色い世界に閉じ込められる。それを切り裂くような、ひとつの声。 「今のままでいいと思うのか。このままでいいのか、先へ進むのか?」 まるでデンマークの悩める王子にでもなった気分だ。当然、アンはこのままでいいなどと思ってはいない。王子は自分に問いかけていた。 それが問題だというのなら、アンの答えは決まっている。 「言われなくとも、先へ進むわ」 そのためにメラン・タウンを離れるのだ。そのために歩くのだ。そのために――何もかも捨ててここまで来たのだ。 「ひとつ聞かせて。あんたたちは、どこまで覚悟してるの? 何があっても引き返さないって言える? 途中で逃げ出すくらいの友軍なら、必要ない」 アンの瞳はひどく深刻そうに未来の懸念を示していた。それは戦場を往く戦士にも似た、鋭い力を秘めていて、ネッドはかすかにひるんだようだった。 アンには、“何か”があった。その何かが分からなくて、彼は知りたいと思ったのだ。 「ぼくを誰だと思ってるんだ? この世で成功するために生まれてきた、 あまりの自負に、アンは失笑するのも忘れてしまった。自分に自信がたっぷりだから、失敗することもなく、逃亡する未来も想像できないのだろうか。行き過ぎる自負心は時によくないものを生み出すが、言葉はともかく、ネッドの方に大事をやり遂げる力があると信じて疑わない何かがあるらしい。まったく自信がないよりはましだと、アンは今度はリラに視線を移す。 ちょうど彼らは目で通信をしていたところだった。自分に付き合いでここまで来たのではないだろうなと、ネッドが眼鏡の少女をに訴える。ネッドの視線を受け取って、彼の言いたいことを察したリラは頷く。それだけで足りないとアンは言葉を促した。 「そっちのあんたも、たとえ家に帰れなくなる日が来たって、いいっていうの?」 赤いフレームの中でリラは少し目を伏せた。 「家に戻らなくても、問題はない」 淡々とリラは口にするが、隣りの少年が彼女を一瞥したのを知らない。 「あなた、面白いからつきあってあげる」 変な子だと、うっかり口から出そうになったのをアンはとどめる。自分のどこが面白いというのだという疑問もある。 人間が十人いれば十人それぞれ違った反応をするのは当たり前だが、二人だけでこうも違った答えを見れるというのも、なんだか変な気分だった。 「そう、じゃあ――行動で示して」 言うなり、アンは手の平を上にして前に突き出した。何かを要求するように。 「あんたたちがどこまで親の干渉を受けているのかは知らない。でも、あたしは親という存在が今しようとしていることの妨げにしかならないって、よく分かってる。だから、彼らとの別れすら拒まないっていうんなら、その協定にのってもいいわ」 「どういうことだ?」 「身元が分かるものを、壊して」 アンの手に載せてくれれば壊してあげる、そういう手の平だったのだ。さすがにネッドは顔色を変える。リラはというと、分かっているのかいないのか、単に表情が変わらないだけなのか、眉を少し浮かせただけの反応だった。 「それを覚悟の証として受け取るわ。それに、あんたたち自称めだつ子どもたち、でしょ。身元が分かればより面倒なことになるでしょ」 「……そりゃ、ぼくたちだって、親に口出しされたくはない。でも、きみの言ってることは、クレジットカードすら破棄しろ、ってことだろう? 金銭面の問題は、どうするんだよ?」 「あら、やっぱり現金は持っていないのね、お坊ちゃま」 ふふんと笑われて、ネッドがいい顔をするはずがなく、体の横で拳を握った。女の子を殴る趣味はないが、この拳を向ける相手がこの世界にいるならアン以外に他はない。少年は自制心を引っ張ってきてとどめておくのに必死だった。 「お金なら、あたしが現金を持っているから当面の間は大丈夫」 クマのぬいぐるみも入ったアンのカバンの中には、軽くて持ち運びに楽なようにと、小銭が貯まるたびに交換してもらったお札がたくさん入っている。それでも大金とはいえないが、贅沢さえしようとしなければ、しばらくは普通の生活ができるはず。それが、ネッドにとっての快適な生活とはいえないだろうことはよく分かっているが、そんなことはアンには関係ない。 「わたしは身元を証明できるようなものは持ってない。これと、」 言いながらリラは背負っているリュックサックの肩ベルトを持ち上げて、その存在をほのめかす。 「お財布しか持ってきてない」 ネッドとリラがどこから来たのかは知らないが、メラン・タウンの住民ではないのはよく分かっている。遠出にやけに軽装で来たものだと、アンは思わずリラを見つめた。それを疑いの眼差しと受け取ったのか、リラがなおも続ける。 「携帯電話は、両親から与えられたけど日常生活においてさほど必要ではなかったから、自宅に置いてあるまま。クレジットカードは、元々与えられていないの。これでいい?」 パンクファッションなリラは、ネッドと一緒でなければ、良いところのお嬢様だとは思えない。彼女は実はネッドほどのお金持ちの娘ではないのだろうか。それならば手荷物に頓着しないのも納得できるが、明らかに育ちのよいネッドとはどういうつながりなのだろうか? 学校の友人という関係性が思いつかなかったのは、アンに学友がおらず、この一年間は通学をしていなかったことが影響しているだろう。 リラは家に戻らなくてもいいと言った。家庭事情の複雑な環境で育ったのか。思って、内心で笑ってしまった。単純じゃない家庭を持つのはアンも一緒だ。 「分かった。そっちのあんたは?」 最初の頃はともかく、既に名乗ったはずの名が呼ばれないことにネッドは憤りを感じていた。もっとも、この煤けた格好をした少女に苛立たない時はほとんどなかったが。 「徹底して探せば、身分証の有無なんてあってないようなものだろ」 そこまでする必要があるのか、ネッドには理解しきれないでいた。現に、ネッドたちは携帯電話も持たないアンを探し出すことができた。いくつかの幸運が重なったとはいえ、それは確かなのだ。実際、根っからのお坊ちゃん育ちのネッドは、現金を持たずに済む非常に便利なカードを簡単に手放す気にはなれなかった。これがあるから――リラよりは軽装ではないとはいえ――大きな荷物を引きずらずにここまで来れたのだ。せめて必要なものを買いだめしてからでも遅くはないのではないか。 「……そういえば、あんたたち、どこから来たの? ホテルに泊まったりしたの?」 「いや、ホテルはまだ取ってない」 「そう。ならよかった。支払いのできない場所が既にあるっていうのは困りものだもの」 どうやらアンはネッドがクレジットカードを破壊する前提でものを言っているらしい。それで、ホテルに戻らなかった場合に生じる問題について論じているのだろう。 「でも……そっちの資金だって底なしじゃ、」 「いつまでもぐずぐずとうるさい」 一喝。子どもをしかる母親のようだった。アンの言葉に、ネッドの開いた口はふさがらない。 「あたしとあの子だけで行ってもいいのよ。ダサいことしてんじゃないわよ」 何か、破壊衝動に応えてくれるものがあれば何でもよかったのかもしれない。ネッドは怒りの勢いもあって、一気に携帯電話を半分に折った。それから、財布の中身を地面にぶちまけて散らかすと、カード類を踏みしだいた。 「これで満足か?」 「ええ、もちろん」 少年は、想像以上に相手が一筋縄じゃいかないことを思い知らされていた。まだ何か壊したりない。地面によさそうな標的を求めて視線をさまよわせる。怒りで顔は赤く、目は血走っていた。年上ならまだしも、同じ年頃の子どもにここまで言われたことはない。 「さっき言ったわよね、今のままでいいのかって」 アンが語りかけるように言葉をつむぐのに、うつむいたままのネッドだったから、リラはついと彼の服と引っ張った。少年は恨みがましい目を向ける。 「あんたたちがいなくてもあたしは前に進むつもりだった。いいよ、同行を許してあげる」 相手を対等に見た発言ではなくて、ネッドは心底うんざりしたような顔をしてみせるが、気にせずアンは続ける。 「ただし、あたしがあんたたちを利用するの」 少女は二人の人間の間ほどに人差し指を向けた。 「せいぜい、いい手駒になってちょうだいね?」 また風が吹いた。ネッドのこぼした財布の中身から、軽い紙類が舞い上がる。 髪を風にたなびかせて、アンは世界を睨むようにして口の端を上げた。 デンマークの王子……ウィリアム・シェイクスピアの戯曲ハムレットの主人公の事。 「To be, or not to be: that is the question.」は劇中の有名な台詞。 「生きるべきか死ぬべきか」という邦訳が多いが、「今のままでいるべきか、そうでないか」という意味をも含むと考えられる。 |