アンのテディ・ベア −5− アンは、信じられない面持ちでありながらも、これはどこかで見た光景だと認識していた。
謎の男たちをいとも簡単に昏倒させた白い影は赤ん坊ほどの小さなぬいぐるみだった。体毛の雪を思わせる白さは灰色の路地を駆けたにも関わらず純白のまま、まぶしくて目が痛いほどだ。真っ赤なルビーの輝きを持つ瞳はどこかを見ているようで見ていないようにも思える。きょろきょろと首を動かしてさえいなければ、ふつうのぬいぐるみと見まごうことはなかったはずなのに、それは辺りを見回していた。 彼だか彼女だかわからないがウサギのぬいぐるみが目にもとまらぬ速さで、自分の背丈の倍以上ある男たちを気絶させた。アンは青い瞳でそれを見たばかりだが、理解ができそうになかった。信じられない。いや、信じたくないと言うべきか。 余裕たっぷりの大人のような笑みで、少年が地べたのアンを見ている。 「とはいえ――今回のことは、ぼくらにも全く非がないとは言い切れない。きみとは違って、何しろぼくらは目立つからね」 なめらかなダーティーブロンドの髪をかきあげると、少年は一度ウサギのぬいぐるみに視線をやった。すると、相手は命令を与えられたかのように歩き出す。主のもとにやってきて彼を見上げているウサギは、本物のウサギでもなく、人間でもないはずなのに、まるで人のようにふるまっているではないか。 (うそ、でしょ……) そんなものは、動くぬいぐるみなどは、アンのよく知るジョリー、クマのぬいぐるみのジョリーだけだと思っていたのに。 先ほどから感じる視線の中で一番強いものは、アンにむかって一言もしゃべりもしない、彼女と同じ年くらいの少女だ。赤い縁の眼鏡フレームからの視線はアンに長く注がれている。ピンクの細い三つ編みを肩の下に二本伸ばし、やぶれた裾のTシャツに安全ピンという所謂パンクなファッションをしている。同行の少年の白いシャツに深緑のズボンという正装にも近い出で立ちと対照的で、どこかちぐはぐな二人だ。 何よりおかしなことといえば、動くぬいぐるみ。 何故彼らはアンの目の前に、アンのよく知るジョリーと似た存在を伴ってあらわれたのか? 脳内によぎるのは、大切な何かを失ったあの日。燃え盛る炎の色をした記憶。 「あんたたち……なんなの……?」 言いながら、アンはなんて間抜けな質問なのだと我知らず自嘲した。 わかりきっているではないか。 彼らは何らかの事情によってジョリーのような存在と出会い、その目的のためにここに来た。アンに出会ったのは偶然か――いや、そうではないだろう。眼鏡の少女はアンの顔を見るなり「この子だ」と言った。アンを探しに来たのだ。 「ぼくらは……」 少年は口の外に出かかった言葉を一度飲み込んだ。まるで策士のように笑うと、 「きみの態度次第では、きみの友軍だよ――“アンジェリカ・ミルン”」 歌うように言った。 フルネームを唱えられて、アンは多少なりとも驚いたが、予測していたことではあった。彼らはやはり、アンを探してここまで来た。そして、アンを突き飛ばして手のひらをすりむかせた。ぶつかった時だって緊急時だというのに、この少年は不機嫌そうに不満を口にしていた。 「――条件次第で力になる? まるで三下のセリフね」 アンの言葉に、少年はひくりと頬をひきつらせる。 「知らないの? そういう交換条件を出すような人間には裏切りの相が出るって、よくある話よ。話の主人公に退治されて、はい、オシマイ」 先日タマラと見たテレビドラマの中で一度見た程度だが、世にたくさんある物語のうち裏切り者の出てくる話は一度や二度ではないはずだ。その中で交換条件を出した裏切り者だって一人以上はいるだろう。 「それに、女の子に優しくっていう基本も守れないやつがヒーローになれるはずがないのよ」 言いながら、アンは体を起こして立ち上がった。まだ言い足りない、というよりアンは何かを相手に言い続けていなければ頭が混乱しそうだった。 「ふうん、じゃあきみの理想とするヒーロー像を教えてもらえないかな? もちろん、ぼくはそれを演じるつもりはないけれど」 真正面に立つ少年は奇妙に口の端を上げたまま、挑発するような瞳を向けてくる。 「必要のないものを集めてどうするの? 無意味なことをしたがるなんて、訳がわからない」 「なぜだろう、きみが望むものと反対を演じてみたくなったからかな」 ケンカ腰になったのはアンの方が先だったが、相手ものり気のようだ。かすかな微笑をたたえる二人は、目付きだけは勝負を前にした人間の目だった。 「わざわざそんなことをしなくても、もうあなたのことは嫌っているから安心していいよ」 「別にきみに嫌われているとかいないとか、どうでもいいんだけどね」 「じゃあとっととあたしの前から消えたらどう、三下わき役さん」 「その三下ってのが気に入らないな」 ある意味では会話のキャッチボールが順調に続き、おしゃべりは滑らかに進んでいた。その中身はともかく。 「そもそも、きみはそんな風に余裕をもって話をできる状況にあると思っているのなら大間違いだ。きみは、」 「ネッド」 これまでに会話に一度も入ろうとしなかった眼鏡の少女が、はっきりとした声で続けた。 「とりあえずここを離れない? 暗くなってきた」 端的に語る少女の言葉はたしかに正しかった。曇りの日であっても夜は目に見えてやってくる。メラン・タウンの暗がりを子どもたちだけで過ごすのは安全とはいえない。 これを機会にアンは一人で歩き出した。きっと彼らはついてくるのだろうなと思えたが、もうこの場所には居たくなかった。予想通り、何も言わずに彼らはアンの後に従った。 ひとまずアンの家へと向かうかどうか、彼女はためらった。相手がいくら子どもだからといって、味方になる可能性を示したからといって、どういう対応をとればいいのか決めかねていたのだ。 大通りのある場所まで出てから考えようと問題を先延ばしにしていたら、東の空が明るいのに気がついた。最初はそれが東とは分からなくて、夕焼けだと思った。だが、曇りの日の夕暮があんなに明るいはずがなく、まして大通りに出た瞬間に方角が判明した時には、アンは自分の考えが間違いだと知る。 オレンジ色の、空。 一年前の、記憶。 ――店内は火事場と化していた。うねうねと触れられもしないのに踊り狂う炎がそこここに広がる。焦ったアンは目に入った熱風と煙とぐったり倒れこむ太めの店員の姿に気絶しそうになる―― 声もあげられずにアンは駆けだした。 どこに行くんだと声を荒げる少年の存在も、脳内にはなかった。 まさか。 まさか、まさか! 一度目は大切なものを失った。今度は、大切なひとと、大切な存在を失うかもしれない! 喉がひりひりと乾いた。走るうちに見えてきたものはもはや、アンの想像した最悪の未来をありありと見せつけていた。 「……い、いや……」 タマラとアンが暮らす安いアパートが、炎に包まれている。六階建てのアパートがすべて、キャンプファイヤーの薪のように燃えているではないか! 「やだっ! ジョリー、タマラ!!」 絶望という名の 「離れて、危ないから!」 消防士の声なんて聞こえない。 なんて日だ。なんて運命だ。アンの世界は二度も同じ歴史を繰り返そうとしている。動くウサギのぬいぐるみ。火事で失われる―― ――ジョリーは次の瞬間、青年のナイフに斬りつけられていた―― 「いやあああああ!!」 誰かに腕を引かれたけれど気がつけず、アンは頭をかかえてよろめいた。 ――真綿が弾ける。背中のほつれよりも早く、その傷口からは内臓が飛び出していった―― 「おい、しっかりしろ!」 消防士の声が遠くでする。しかしそれは消防士のものではなく、ウサギのぬいぐるみと共に現れた少年のものだったけれど、あまりに些末すぎて判別できない。 「アン……」 今度は声の主を当てることができた。タマラなの? 音にしたはずが、ちゃんと口が動いていなかった。 「よかった、あんた、無事だったんだね……」 あまりに大変な出来事が起こると人は動けなくなるものらしい。アンもほとんど、地面にすわりこんでいたが、タマラも尻餅をついて座っていた。 のろのろと動いてやってくる、二十代の女性。ややふっくらした体型なのを気にしている娘。アンはそんなこと気にしてなかった。染髪料で染めたブロンドの髪はぼさぼさで、頬に煤がついている。 タマラ・ベンダンディ。アンは彼女に手をのばした。 お互いに相手の無事を確認すると、アンはゆっくりとタマラからはなれた。 「……タマラ、あたし」 「そうだ、アン。あんたの荷物、これだけしか持ち出せなくて」 それを見た瞬間、安堵でひどく気が抜けた。あまりの幸運にめまいがしそうなほどだった。 タマラは火事の中でも荷物を持って出ていくほどの余裕があったようだ。自分の分のカバンもひとつ背負っているが、アンのものまで持ち出していてくれたらしい。それは、大事なものが入ったたったひとつのカバン。タマラの家で暮らすようになってから、アンの私物は増えたけれど、いつでも家を出れるようにと身軽にしていた。ジョリーの入ったカバンをひとつ手にして、また出かけられるように。 「ああ……タマラ、あたし、あなたにどれだけお礼を言ったらいいか」 タマラは首を左右に振った。当たり前じゃない、とでもいうように。どうして彼女はこんなにも優しいのか。見ず知らずの少女を一年も同居させてくれた。 だからこそ、アンはもうここには居られない……。 偶然には思えない火事。“敵”がまさか、ここまで首尾よくアンの居場所を消しておびき出そうとしているのだとは、到底思いたくない。信じたくもないが、もしアンのせいで火事が起こったのなら、もうこの町には居てはいけない。 そうでなくとも、家を家財道具を財産を失った若い娘に、まだ食い扶持を居すわらせろというのは無理な話だ。 いつでも考えてきたことだ。アンはタマラの家を出る。ずっと一緒にはいられない。 「……ありがとう、タマラ」 これまでずっと。 アンは受け取ったカバンを手に立ち上がる。ゆっくりと、彼女に背を向けた。 「……アン?」 自分の家を飛び出して、アンは誰かの力を借りるつもりはなかった。それでもずっとタマラの家にいたのは、彼女がジョリーを笑わなかったからだ。 ずぶぬれで、綿の出てしまったぬいぐるみを、きちんとした身なりになるよう手伝ってくれたのもタマラだった。プロ並みというほどではなかっただろうが、針を持ったことが一度ある程度のアンよりもはるかに手慣れた手つきで、ジョリーの縫合をしてくれた。 十歳にもなると、ぬいぐるみを抱きしめるような趣味は笑われることが少なくないのに。それをずっと大事にして、壊れても直そうとするのを、手伝ってくれた。 それだけのことでも、アンにはひどくうれしかった。 だからもうここには戻らない。 何か言わなくちゃ、焦りに似たものが生まれるが、何を言っても真実からは遠ざかる気がした。 アンはけっきょくタマラの前からいなくなるのだ。それは変わらない。 「アン!」 切羽詰まったようなタマラの声。今は少し耳に痛い。足を動かして、遠ざかる。 さよならの言葉が言えない。代わりにアンは、カバンをぎゅっと抱きしめた。 |