殺し屋と御曹司



 右手は手前に動かすから左手は向こうへ回す。骨ごと腕を捻る。かじりついて、目玉をくり抜いて、頭突きをあげよう。

 首をかっさばいて、赤い飛沫をあげさせよう。

 デザートには鉛を。いくつもいくつも雨のように降らしてやる。


 殺してくれ。
 殺してくれ。
 殺してくれ。


 あなたを殺すから、私の事はどうか誰か。






  **





 何かが破裂したような音で目を覚ました。かすかに頬に液体の感覚。
 血か。ヒーローはやっと覚醒した。
 ここは我が国の首都でホームレスとギャングどもと悪ガキしかうろつかない裏通り。

「何してやがる、ヒーロー!」

 そうだ、自分は何をしていた? 仕事の真っ最中に白昼夢など見て、背後に迫った敵の姿にも気がつけないでいた。それを仲間に撃たれてからはじめて気づくなんて。
 自分の周りには体に穴を開けた男たちが転がっていた。敵にもう武装してまともに動ける人間はいないようだ。仲間の一人が不満げに唸る。

「しっかりしてくれ、“ヒーロー”さんよ」

 “ヒーロー”の名前は本名ではない。仕事上使う便宜的な名前だ。しかし今の言い方は言葉遊びのようで、英雄ヒーローとからかうつもりが相手にはあったに違いない。

「すまない…」

「ったく…」

 トビーはサングラスの向こうで不満な目をしているのだろう。ヒーローは自分自身に呆れた。慣れた仕事だとはいえ油断していた。上の空になるなどとプロ失格だ。

 何も気がかりな事があるわけではなかった。ヒーローはいつの間にか白昼夢の中にいた。
 薬のせいかもしれない。だがおそらくは一瞬の事だっただろう。でなければ今頃赤い血だまりの中に顔面で飛び込んでいたはずだ。

「戻るぞ」

 死体を処理するのは別動隊だ。彼らは車に乗って死人だらけの裏通りを後にした。






 次の仕事は一流企業の御曹司を殺すというものだった。御曹司と聞いて想像していた年齢よりかなり若い相手だ。幼いと言っていいほど。まだ十歳だという。少し珍しい事象ではあるがプロの彼らには関係のない事だった。

 十歳の御曹司には立派な護衛がついている。そしてその子どもが狙われるに至った“原因”を守るためでもある。曰わく、最新科学技術を使って作り出した細菌兵器のデータが御曹司の頭の中に埋まっているらしい。御曹司が兵器を作り出したわけではなく、彼の親とその企業が作り出したそれをチップに変えて子どもの脳に埋め込んだのだ。兵器のデータを狙う輩がいるために御曹司は殺し屋にまで目をつけられるようになった。
 彼の親は既に死んでいる。母親はもっと以前に病気で、父親は兵器を手にしたい人間の手によって殺されている。御曹司を守るのは護衛たちだけだ。

 簡単な仕事のはずが、いざ現場に向かうと予想を上回る数の護衛がいた。一つの廃ビルに御曹司とその取り巻きを追い詰めたはいいが、護衛たちは隠れているのか後から後から出てくる。

「ヒーロー、おれに続け」

 トビーに命じられ、ヒーローは頷いた。愛用の銃を手に敵の死角になるよう壁に身を寄せ進む。

「ボトム!」

 仲間のボトムが撃たれた。誰が叫んだかは分からないが、ヒーローはより一層警戒を強めて動いた。
 トビーが立て続けに弾丸を撃つ。人の気配が減った。

「今だ!」

 ヒーローは銃を手にトビーと共に御曹司の元へと駆けた。屍が重なる中に、子どもがいた。身なりの良い、小さな少年。これを殺せば任務終了だ。ヒーローはトビーに顎で命じられ、子どもの前に立った。
 頭蓋骨に銃口を突きつけたヒーローに、トビーは注意した。

「頭は止めろ。例のチップが破損する」

 言われて、ああそうかとヒーローは一瞬意識を逸らした。途端、腹を何かが貫いた。冷たくて、冷た過ぎるから、熱い、何かが。

「…っつぁ…!」

「ヒーロー!」

 腹を撃たれたらしい。ヒーローはよろけながらも状況を把握していた。倒したはずの敵がまだ動ける状態だったのだ。銃を手にしてヒーローを害せるほどに。トビーがすぐさまそれを排除したのが分かる。
 ヒーローは体を傾がせながら一つのつぶやきを聞いた。

「女の人……?」

 ぼんやりとした、驚きの声だ。やっとまともに対象の顔を見ると血にまみれて真っ青な顔をしていた。護衛たちが守ってきた御曹司がこれか。
 まだ子どもだった。瞳は怯え、唇は震え、ちっぽけな気力で正気を保たせているみたいな小さな子ども。

「おい、ジェークイズ? くそっ! ヒーロー、やばい、囲まれたぞ」

 トビーが仲間と連絡しているのが分かるが、その内容はあまり良いものではないようだ。仲間がまた一人死んだかもしれない。
 一度は膝をついてしまったが、まだ立つ事の出来るヒーローはよろけながら立ち上がると、ひょいと子どもを持ち上げて立たせた。トビーは何故といった顔をしただろうが、何も言わずに退路を探すために駆け出した。
 子どもの腕をどうして手にしたのかは分からない。引っ張ると子どもはそのままついてきた。

「シェイクスピアのキャラクターなの?」

 かけられた声も、その意味にも理解が出来ずヒーローは返事をしなかった。
 ヒーローは今、どこか別のところで仕事の仕切り直しをするつもりだった。今すぐ殺さないのは、この御曹司を盾に退路を作るため。そうした理由は後からついてきたような気がするが、そう思えば当たり前のように思えた。

「『空騒ぎ』のヒーロー、『夏の夜の夢』のボトム、『お気に召すまま』のジェークイズ」

 子どもがうるさいので睨むとひどく怯えきった目に出会った。それなのに何かを失わない瞳。それは何なのだろうとヒーローは眉を寄せた。

「喜劇は好きなんだ」

 うつろにも見える表情で言う子どもに、ヒーローは彼の言っている言葉の意味を考える事にした。
 自分たちの仕事上の名前について御曹司は語っているのだ。なるほど、確かにウィリアム・シェイクスピアの喜劇『夏の夜の夢』の“ボトム”は有名だ。彼は一時期ロバの頭になる。たしか、“トビー”の名前も何かのシェイクスピア喜劇に出てきたような気がする。
 しかし他に聞き覚えはなかった。“ヒーロー”の名前はシェイクスピアの登場人物からとられたのだろうか? 彼女はシェイクスピアをよく知らない。一流企業の御曹司ともなると十歳でも博識だな、と皮肉げに思った。

「シェイクスピアは自分のキャラクターたちにたくさん面白いこと言わせてるけど、ぼくは」

 この世はすべて舞台、男も女も役者にすぎない。

 ってやつが好きだな。
 そう言った子どもの顔がやけに利発そうに見えてヒーローは目を見張った。瞳にただの子どもが抱くには強過ぎて、確信のある光が宿っていた。

 ヒーローは子どもの頃に家族を失っている。離婚という形でだが、かつては弟がいた。記憶の彼方に消え、輪郭を伴わない弟が目の前の御曹司になっては消えた。


 ここはどこだ。

 これは何だ。

 私は何なんだ?






  **



 All the world’s a stage,
 And all the men and women merely players...



  **






 二十五年生きても意味がない事がある。二十五年は無駄だった。四半世紀生きて、彼女の人生は無駄だった。
 よく知っている。

 五年もあれば神童は頭角を表す頃かもしれないのに、二十五年。彼女の人生に才能も家族も友人も恋人も幸福も不幸も感情も何もなく、まったく意味のない時を過ごした。
 長年にも感じられるそれらは、一年にも匹敵しないのだった。
 その二十五年は無だった。空白に等しい。確かに過ごした時間は、真っ白だった。

 何もなかった。二十五年も人間として暮らせば何かあるはずが、あるのはただ時間のみだった。気がつけば銃しか手の中にはなかった。有害なもの以外は何もない。

 マーガレットは気がついた。何もないって事に。






「おい、ヒーロー! くそ…だめか…」

 トビーの声にヒーローはうっすらと瞼を開いた。どうやら気を失っていたようだ。倒れた自分を前に御曹司が逃げずにいる理由を考えたらトビーがまだ銃口を突きつけているからだと分かった。
 トビーはヒーローが意識を取り戻したのを見るとすぐに「待ってろ」と姿を消した。

 子どもはまた、極度の緊張感を強いられている者特有の顔をしていた。ヒーローは自分がおかしくなってしまったように感じた。薬をやっているから仕方がないが、普段と違う頭の痛さにどうかしてしまいそうになる。
 見ると、自分の腹に止血がなされて赤くにじんだ傷口がおさえられていた。気の遠くなるような痛みはこれが原因か。

 ヒーローは自分を無理やり立たせようとして、体が嫌がるのが分かった。それでも機械的に足を動かすと、誰かの手が彼女を支えるのが分かった。あまりにもバランスがとれない事で、御曹司が自分の体を支えようとしているのだと知る。

 おかしなガキだ。自分を殺そうとする殺し屋を立たせようとするなんて。ヒーローは銃も手にしてないのに。

「お前は……すべての人間にそれぞれの役があると思うのか?」

 シェイクスピアの言葉とやらは、本当に名言なのか? 世の中そんなものなのだろうか。
 人間すべてがただの役者だとしても、誰にも意味を与えない役だったらそれは本当に舞台にあがっていると言えるのだろうか。

「運命って言葉は好きじゃないんだ。でも意味はあると思う」

 意味があるのか?
 ずっと問い続けてきた事だ。

 ない。
 ずっとそう答えてきた。

 意味なんかない。微塵もない。何もない。何一つとして形にならずに風に飛ぶ塵のように消える。
 意味は―――。

「意味なんかない」

「あるよ」

「お前が命を狙われて、死ぬ事にも意味が?」

 他の者にはあるだろう。しかしこの子どもにしてみれば大人たちの戦争に巻き込まれただけの状況だ。意味もなく死ぬ事が彼の真実だろうに。

「あるよ。ぼくは兵器のレシピなんだから」

 それがなくなるって事は、意味がないとは言えないでしょう?

 彼は笑った。
 御曹司は何故か笑っていたのだ。それは気味の悪い笑みで、子どもにはとても似合わないものだった。

 思考するのが難しくなってきたヒーローは、もう会話も億劫だった。
 世界が混ざり合う。夢と現実と幻が重なり合う。
 どうやら、眠たくなってきたようだ。

「……ジョージ……」

 ヒーローの体はほとんど彼女の支配下にはなかった。傾いだ体がうっとおしい。
 思考は混濁していて自分が何を口にしているかも知らない。

「え?」

 次の瞬間、ヒーローの目に二つの情報が飛び込んできた。
 こちらへ向かうトビー、向こう側のビルにいる狙撃手。

 誰が何を狙っているのかが分かった。
 狙撃手は、殺し屋を。トビーは……人質を。

 手が勝手に動いていた。どうなるかも分からずに。突き飛ばしたのは子どもの御曹司のはずだ。
 けたたましい銃声がたくさん聞こえたのは確かだ。しかしヒーローにすべてを知る力はなく、強制的な意識の遮断の憂き目にあう。








 その庭の、花を抜いて花を抜いて花を引きちぎった。

 何もなくなって満足した。

 むなしくなった。

 もう何もしたくなくなった。

 いらなくなった。惜しい気もした。

 でももう、いい。

 ぽつり、ぽつり雨が降る。

 花なんかないのに。






  *






 病院は忙しく、次の患者のため、常にベッドが空くのを待っていた。看護師は今日も空いたベッドを探して病室を立ち回りする。

「502号室の患者さんまだ目覚めないのかしら」

「そうね。それにしてもあの人、堅気じゃないわよね。嫌だわ」

 薬物反応があって銃で撃たれた患者などそう珍しくもないけれど。そう加えて看護師たちは埋まったベッドだらけの病室を後にする。






「ここはどこ……?」

 分からない。
 しばらくしたら自分自身の事も分からないのだと気づく。
 真っ白だった。
 ああ、ついに全部分からなくなってしまったな。そう思った。不思議な事に、自分の経歴はおろか名前すら分からないはずなのに。

 最後にしていたのは何だった?
 自分の名前は何だった?

 最後に会ったのは誰だっけ?
 分からない。

 ただ一つ、名前を聞いておけばよかったような、気がする。
 そんな相手だったように思えた。






  **



 Come,lady,die to live...



  **






『たった今入ったニュースです』

 マーガレットは顔を上げた。いつの間にか眠っていたらしい。

『……十年前……の事件で……れた……』

 今時古くさい立方体のテレビをカウンターに置く店主は、音と画像が乱れるのに苛立ち、テレビを叩いた。音も画像もあまりよくはならなかった。

 マーガレットは思い出していた。今日は仕事が早く終わったので小さな喫茶店で一休みしていたところだ。気が緩んだからだろう、うたた寝をしていたのだ。頼んだコーヒーがすっかり冷めてしまっている。

『現在……に就くジョージ・バーナードショーが……に……チップを……』

 今度はがんがんと叩く音でテレビの音声が妨害された。店主がテレビの脇っ腹を叩いているのだ。画面は一度歪んだ後、いくらかきれいになったがそれでは音が聞こえない。もっともマーガレットはニュースをまともに聞いていないから関係のない事だが。しかしあまりのうるささにテレビに顔を向けたら一人の男の写真が映っているのが見えた。どこかで見た顔だと思った。

『……脳には存在しないとわかり……、おそらく彼を……から狙っていた者に……狙撃されたとの……現在、安否は分かっておらず……』

 窓の外に雨が降ってきて、塗れたガラスをマーガレットは見つめていた。






  **






 あの日の事を思い出していた。
 ついに頭の中から“悪夢”を追い出す事が出来た日だ。よく覚えている。

『何故彼女を生かしておくのですか?』

 後に僕の秘書になる男が言った。

『なんとなく、かな』

 理由らしいものは探してもなさそうだが、あるといえば彼女が僕の名前を呼んだからかもしれない。おそらくきっと、彼女の大切な人の名前が僕のものと同じだっただけなのだろう。意識の混濁した状態で口にするのが殺すべき相手の名前であるはずがなく、恋人の名前でも口走るのが普通だろう。

 でもあの人は、“彼女のジョージ”を失ってしまったみたいに言葉にした。

 だから、かもしれない。
 殺し屋の一人に記憶を失ってもらって、新たな人生を歩ませるなんていうのは危険な事なのだろうか。一度様子を見に行ったら、まともな人間みたいに振る舞っていたし、彼女が捕まったという話も聞かないが。

 どうしてあんな事をしたのか分からない。

 ただ一つ、婚約者により酷い仕打ちを受け、しかし最後には結婚するに至る喜劇のヒロインヒーローの本当の名前が知りたかった。






     ・

     ・

     ・






 客の居なくなった店でテレビの箱はしゃべった。

『あっ、追加のニュースです。ジョージ・バーナードショーは無事です。意識はありませんがたった今、救急車で病院に運び込まれたようです!』

 ぶつん。

 赤外線が飛んできて、カラフルなスクリーンは、中心に小さく収斂しゅうれんして真っ暗闇に変わった。







シェイクスピアの喜劇から引用。

Come,lady,die to live;
「さあ、お嬢さん、生きるために死ぬのです」

(『空騒ぎ』第四幕第一場)


All the world’s a stage,
And all the men and women merely players;
「この世はすべて舞台、男も女も役者にすぎない、」

(『お気に召すまま』第二幕第七場)



ヒーロー:『空騒ぎ』の登場人物の一人で女性の名前。誤解から婚約者にひどく嫌われてしまう。死んだ振りをして紆余曲折を経た後、婚約者と結婚するに至る。


 


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